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若い頃、ある女性に「あなたは小さな幸せを見つける天才ね」と言われたことがある。

言われた私は、そのときあまりピンとこなかったのだが、彼女は私よりだいぶ歳上でありながら、とても美しく素敵なひとだったので、無邪気に喜んだのだろう、時折あの言葉を思い出すことがあった。

あの頃、まだ将来の余白をたっぷり持っていた、青年と呼ばれる年齢だった私も、今や高血圧の薬が手放せない中年になってしまった。

その十数年の間に、私は様々なものを手に入れ、同時に失ってもきたのだが、先日、〈ソウルフル・ワールド〉というピクサーのアニメ映画を観ているとき、ふいに彼女の言葉を思い出したのだった。

ジャズ・ミュージシャンを夢見ながらも、中学校で音楽を教えているピアニストの主人公ジョーと、生前の世界で、これから人間として現世に生まれようとしている魂22番が、それぞれの〈きらめき〉を探していく、という物語だ。

作中では〈きらめき〉というはっきりしない言葉が使われていて、それは、__幸福だったり、生きる意味だったり、与えられた才能、ギフトだったり、様々な意味を思わせるのだが、現世を生きる私たちも皆、日々、〈きらめき〉を探して生きているのだろう。

ジョーが、教師なんてやめてミュージシャンとして生きていきたいと切望するように、私たちの多くも、好きなことをやって、なりたい者になって、夢を叶えて、愛し愛されて、幸福になりたい__、そのための〈きらめき〉を見つけようと、毎日を暮らしているのではないか。

人それぞれの〈きらめき〉が何であるか__、生きるということは、それを見つけるための旅なのかもしれないが、ひとつの答えを、あるいはその答えに導いてくれるヒントを、この作品はラストで提示してくれる。

私はそれを見てようやく、かつて言ってもらった「あなたは小さな幸せを見つける天才ね」という言葉を理解し、受け取ることができた。十数年の時を超えて……。

私にとって(あるいはあなたにとっても)、〈きらめき〉とは、

__この、毎日の、ただの生活、のことなのだ。

朝、晴れていて、暖かい陽光が射している。

珈琲のいい香りが漂っている。

元気な仔犬が落ちつかず走りまわり、かと思えば、ソファでイビキをかいて眠っている。

天ざる蕎麦が美味しい。

好きな人がどこかで生きている。

蕎麦屋の裏庭に群生するアロエが光を浴びて綺麗だ。

波があって、近所のサーファーたちが興奮している。

脚が動いて、私の身体を海に運んでいく。

お気に入りの女優がドラマに出ている。

〈きらめき〉とは、そのような、

__今、目の前にきらめいている美しさや豊かさ、愛や喜び、やさしさや心地よさのことであり、

同時に、

__それらの〈きらめき〉を、感じることのできる姿勢、心のこと、なんだ。

私はたしかにそのような、日々の小さな〈きらめき〉を無自覚に見つけ、感じ、喜び、それを他者に伝えることが得意だったし、そうして、それらの〈きらめき〉を活力とエナジーに換えて、生きていたような気がする。

だが、私を含め、多くの大人たちは、かつて誰もが子どもの頃には持っていた、__〈きらめき〉を見つけ、感じ、歓び、分かち合う、というギフトを失っていく。

そりゃ、いろんなことがあるもんね。私は先の夏に大きな離別と喪失を迎え、心身に小さくないダメージを受けたが、それだけじゃなくて、今世の中は、コロナだとか戦争だとか、鬱屈するような出来事ばかりで。

しかも、そういうネガティブな、〈きらめき〉の対極にあるような〈澱み〉のような黒い塊を、みんなで分かち合って浄化させたり、お互いをチア・アップして、元気を取り戻す、という機会すら奪われて、なかなかの閉塞感の中を生きている。

恐れや不安の中にいるとき、なかなか〈きらめき〉は見えないもの。

__でも、と私は思う。

でも、だからこそ、世界が、自分が、鬱屈や閉塞や孤独にいる今こそ、私は、自分の中に潜んでいる、まだ眠っている、忘れていた、封印していた何かに期待している。

私には(誰にでも)、どんな状況においても、光を見つける、きらめきを感じる、豊かさと歓びを見つけ出すギフトが与えられていたじゃないか、と。

私の暮らしには、生活の隅々にまだ家族の面影が刻み込まれて、日に何度も、哀しみや寂しさに包まれて、くずおれそうになる。家族で住んでいた家に一人で暮らしているのだから当然で、引っ越そうか、とも何度も考えた。

けれど、私が家や暮らしの中で見つけるたくさんの哀しみや寂しさは、じつは、私が「ただの生活」の中で持っていたのに、感じられず、見失っていた〈きらめき〉だったのだと気づいてから、私は少しずつ静寂を得つつある。

哀しいのは、寂しいのは、そこに、愛があったからだ。

哀しいのは、寂しいのは、そこが、きらめいていたからだ。

私はあの、今思い返せば、涙が溢れるくらいの「ただの生活」の眩い〈きらめき〉を感じられないほどに、心で自分を殺し、世界を呪い、混乱していたのだろう。

だが、その愛やきらめき、歓びややさしさは、たしかにここにあったのであり、__なくなったわけではない。私の中に、それは永遠に残りつづける。

哀しみや寂しさの裏には、いつも愛ときらめきがくっついている。

だけど、ときおり、そうは思えなくて、哀しみや寂しさが、罪悪感や自責という痛みや苦しみに繋がったり、私はずっとこのままなのだろうか、という恐れや不安に陥ってしまうことがある。それを、混乱というのだが、私もまだなかなかうまくコントロールできていない。

だからこそ、私は肝に銘じている。

哀しみや寂しさは、当たり前の、大切な気持ちだ。大好きな人を失って、平気でいる方が不自然だろ?

哀しみや寂しさを追いやるのではなく、それをそっとやさしく抱いて、抱きしめていると、いつの間にか、それはやさしさと感謝に変わっていく……こともある。

ありがとう。私に出会ってくれて。ありがとう。私の人生に足を踏みいれてくれて。ありがとう。私にかけがえのない素晴らしい家族と、美しい時間と、きらめいた人生をくれて。ありがとう。もっともっと、幸せになってね、と私は心から願う。

私はまだ、毎日の暮らしの中に〈きらめき〉を見つけ、感じる力を完全には取り戻していない。混乱して、家から、世界から、飛び出したくなる瞬間だってある。

けれど、ある朝、突然、〈きらめき〉が見え、あたたかさを感じ、感謝とやさしさに包まれることもある。

私はそのように、遅々としながらも〈きらめき〉を取り戻しているのだ、と私は感じ、またやってくるかもしれない哀しみや寂しさをとりあえず置いておいて、目の前のことを、淡々とやっていく。

なんせ、〈きらめき〉っていうのは、今目の前の、この生活の中にあるんだから。下を向いていたら、見つからないんだから。