そんなときはいつも、シェフの甘いコーヒーを思い出す。

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イタリアンレストランで真面目にコックをやっていた頃の話。

何か近所でイベントでもあったのだろうか、その晩は忙しい週末の中でも特にお客さんの入りが爆発して、店は大繁盛していた。

厨房の各ポジションでは、連なった注文伝票が足元まで垂れ落ちている。普段の三倍以上の注文が一気に入ってくるので、とても一人ではまかないきれず、かといってすべてのポジションが同じような有様だから、人を助けている余裕もない。

いつもは裏の部屋で全体を統率しているシェフ(料理長)も見かねてヘルプに来てくれるが、それだけでは足りない。猫の手も犬の足でも借りたいくらいだ。

やがて仕込んでおいた下ごしらえや在庫の欠品を補うことも難しくなってくると、厨房に飛び交う威勢のいいやり取りが怒号に変わる。コックはみんなベテランなのでどんなに忙しくとも余裕を失うことはないが、それでもだんだん瞳から笑みが消えていく。そのときだった。

「おい、誰かコーヒー煎れてきてくれ」

シェフがパートのおばさんに声をかけた。「パートさんも入れて全員、一回お茶しよう」

僕は一瞬何を言っているのかわからなかった。お茶休憩?今?

他のコックやパートさんは、その一声ですっと表情がゆるみ、みんなぞろぞろ裏の休憩スペースへと移動しはじめた。

イヤイヤまずいでしょう!今までみんな必死で調理していたにもかかわらず注文伝票は減るどころかどんどん増えるばかりで、こうしている間にも注文は入ってきてるんだから、一瞬でも気をゆるめたらもうお終いじゃないか!5000円のコースだってまだ終わってないじゃないか!ホールのチーフが怒鳴りこんでくるぞ!

それでもしぶしぶみんなの後を追って、パートさんがコーヒーマシンで煎れてくれたアメリカンコーヒーに、シェフがするようにミルクと砂糖をたっぷり入れて一口啜ってみた。

そのとき、安堵の溜息とともに、全身からすうっと力が抜けた。

同時に、身体中が太い針金で縛られているみたいに力んでいたことに気づいた。

僕の肩はガチガチに強ばり、眉間にも渓谷のような皺が刻まれているのがわかった。

「長山、何ニヤけてんだよ?」シェフが言った。

「え、僕笑ってました?」

「おっかない目でニヤニヤしやがって、気持ち悪いんだよ」

「……いや、こんなときにお茶するなんてすげーなって思って……」

「プロはさ、どんな状況でも笑えるからプロなんだよ」

どんな状況でも笑えるからプロ……、僕は脳裡でオウムのように反芻していた。どんな危機的状況に追いこまれても、余裕を失わないのがプロフェッショナルなのだ。「一瞬でも気をゆるめたらもうお終いじゃないか!」なんて慌てふためいていた僕も、一杯の甘いコーヒーで、余裕を取りもどして笑みを浮かべていたらしい。

最近、人生相談を受けていてよく感じるのだけれど、僕らが人生で迷ったり悩んだりするのって、あの晩の僕と同じように、ただ「焦って、慌てて、身体中が力んでいる」だけなんじゃないかって思うことがある。

じっくり落ちついて、目をそらさず、恐れず、ひとつひとつの注文(課題)に向きえば、答えなんて自ずと出てくるもの。

僕だっていまだに、いつの間にか焦って、慌てて、力んでしまうことがよくある。そんなときはいつも、あの晩の「シェフの甘いコーヒー」を思い出すのだ。

大丈夫。ちょっと休憩したってどうにかなる。人生は思っているよりずっと甘い。「一瞬でも気をゆるめたらお終いな状況」なんてほとんどないよ。しんどいのは、落ちついてないからだ。

絶妙の一服で皆の肩から強ばりがとれた頃、シェフはすっと立ちあがって「よし、いっちょやっつけてやるか!」と言いながら厨房へ戻っていった。あんなにカッコイイ男の背中を、僕は他に知らない。

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