それにしても、クリント・イーストウッドほど映画の神に愛された男もいないだろう。
若い頃、西部劇やダーティ・ハリーでアメリカを代表するアクション・スターとして輝いただけでなく、やがてその輝きも霞ませるほどの、監督としての抽んでた才能も開花させていった。
そして九十歳を超えた今もなお、その円熟した人間性や経験を発揮して意欲的に作品を世に出していく姿を見ていると、ハリウッドや映画界からもらった恩恵を若い世代にペイ・フォワードしているかのようにも見える。
とくに近頃は、__くたびれた孤独な男が、贖罪や恩返しや人生のやり残しを片づけていく、みたいな作品が多いからかもしれないが、ともあれボクにとって、__この人が監督しているのなら黙って劇場へ足を運ぼう、と思える数少ない映画人の一人だ。
イーストウッドくらいになると、作中で演じている人物や世界観や主題を超えて、彼自身の人生や思想が作品に滲み出てくるので、もうスゴすぎてなんだか笑ってしまう。
最新作〈クライ・マッチョ〉は、あまりにもよくある、
__主人公が行って帰ってくる間に、見知らぬ他者と関わりながら、何かを学び、あるいは気づき、新たな見方や方向性を得て、少しだけ変容して(あるいは成長して)帰ってくる。
というような、王道的なロードムービーだ。
筋書きも盛りあがりも平坦で、ボクのフェイバリットの〈グラン・トリノ〉なんかに比べると、__おや?どうした、クリント?と首を傾げてしまいそうになったが、
それすらも、かつての王道ロードムービーの形を今さら見せることに、イーストウッドのメッセージが込められているのではないか、なんて邪に想像してしまう。
作中には「老齢に効く治療なんてないのさ」とか「運び屋じゃないんだ」なんてセリフが出てきて、劇場内にくすりと笑いがこぼれる場面もあり、もはや興行収入など微塵も気にしていないであろう貫禄と余裕を感じた。
かつてロデオ・スターとして、マッチョ(強い男)として、憧れの存在だった老年の男が、これから強く生きていこうとしている健気な少年に、__本当に強い男とはどういうことか、を見せていく姿はまさに、イーストウッド本人に重なる。
アメリカを代表するマッチョだったイーストウッドもまた、作中で語られるように、
__強い男であろうとするのではなく、強い男に見せようとしているだけなのではないか、
という葛藤を抱き続けていたのかもしれない。
私事だが、過ぎた夏に離婚したことを友人たちに伝えると、皆が口を揃えて、__竜さんだけは離婚しないと思ってた、__家族みんな、あんなに幸せそうに見えたのに、と驚いていた。
ボクはそう言っている彼らの姿を見て、
__ボクもまた、幸せな家庭を築こうとしていたのではなく、幸せな家庭を他者に見せようとしていたに過ぎなかったのかもしれない、
と思った。なんせボクには、幸せな家庭の中で自分がどう振る舞えばいいのか、よくわかっていなかったのだから。
マッチョ__本当に強い人、というのは、どういうことなのか。
弱虫のチキンが、闘うことを知り、闘鶏として、マッチョになっていく。そこにあるのは、意志だ。
__強く生きる、という、まっすぐな意志は、自分で選択する、という道に繋がる。
ボクが見失っていたのも、そんな、シンプルな意志だったのかもしれない。__自分の道を、生きる。自分で、選ぶ、という。
あるいは、本当に強い人というのは、あのメキシコの寂れた町のレストランで、両親を失った幼い孫たちと静かに暮らし、やっと愛した人が去っていこうとしても、涙をこらえて笑顔で送り出す、あの彼女のように、ひっそりと暮らしているのかもしれない。
いつのまにか自分の中に封印していた、__本当は強いボクを、思い出させてくれる映画だった。