いやあ、いきなりだけど、あらためて、クリント・イーストウッドってものすごくないですか?

『アメリカン・スナイパー』観てから、ひさしぶりに『許されざる者』を観て、震えましたよね。ぶるぶると。思わず唸っちゃった。

イーストウッドって人は、若かりし頃は『ダーティ・ハリー』とか『アルカトラズからの脱出』とか西部劇とかで名を馳せたイケイケのアクション・スターだったんだけど、徐々に監督業にシフトしたら、俳優時代の栄光が霞んでしまうほどの名作を次々に生み出しちゃった人でね。役者としても監督としても超一流、代表作は数知れず、大谷くんなんて目じゃないザ・二刀流、まさにミスター映画、ミスター・アメリカな人ですよねえ。

この人の映画に一貫しているテーマが、〈贖罪〉なんですね。

パターンはいろいろあるけれど、誰かを傷つけたり、傷つけられたりした人たちが、その心の傷と罪を背負って、苦しみながら、罪を償おうと足掻いてく。

『父親たちの星条旗』『アメリカン・スナイパー』では、戦争で受けた心の傷、PTSDに苦しむんだけど、戦争って、僕らにはリアリティがないけれど、どんな大義があったって、間違いなく目の前の人を殺すんですよね。で、自分と同じ人生を抱えた人間の命を奪うってのは、殺した方だってものすごく傷つくわけです。言うまでもなく。いくつになっても忘れられないくらい、深く、きつく。

『許されざる者』も、残忍な人殺しだった男が罪の意識を抱えながら、子どもたちのため、弱者のために生きることで贖罪を果たそうとする。『ミスティック・リバー』では、幼い頃に受けた心の傷や過ちに翻弄される人々。『グラン・トリノ』のクライマックスなんかまさに〈贖罪〉そのままのシーンですね。

『許されざる者』なんて、登場人物が一人残らず、罪を背負っている。つまり、誰もが、何かしら人に言えない過ちを犯している。残忍な人殺しだった主人公マニーに限らず、敵対する保安官も、被害者の善良そうな娼婦だって、傍観の立場でルポを書く作家だって、誰もがどこかで〈人の道に外れたことをしている〉自分を恥じて、心に負い目を持って生きている。

ここで描かれる西部の田舎町は、僕らの世界の縮図ですよね。僕らの多くが、心のどこかに負い目や罪悪感を抱きながら、今日もそっと暮らしている。

親の期待にこたえられなかった。
子どもを幸せにできなかった。
老いた親の世話をしなければいけないのに。
私のせいで会社に損害が出た。
俺のせいで子どもが泣いている。

そんな、他人から見たら罪でもなんでもない負い目を、気づかぬまま、無意識に、抱きながら。

ものすごく雑な言い方をすると、負い目や罪悪感がなければ、誰だって幸せになれるんです。

問題が起きたり、不安になったときに、「自分なんて」という負い目や罪悪感があるから、対処法や選択肢が狭まって、うまくいかない。そういう気持ちがなくて、「俺ってともかく素晴らしい!」って思えれば、誰かに頼れるし、選択肢も無限大なので、がんばらなくてもうまくいくわけです。お金も仕事も人間関係も。

では、なぜそんな無駄な負い目や罪悪感を捨てられないかっていうと、それが〈自我〉というものに密接に繋がっているからなんですね。

自分の中で肥大化した負い目や罪悪感を捨てるということは、自分自身を捨てるということになる。本当はそんなことないんですが、〈自我〉、あるいは〈自我〉を抱かせる〈意識〉というもの自体が幻想、あるいは脳の錯覚であって、罪を捨てたって、自分がなくなるなんてことはないんだけど、それが怖いから、なかなか〈罪悪感=自分〉を捨てられない。

最近はインターネットのおかげもあって、心理学とかスピリチュアルがわかりやすく大衆化されてきたので、「そういう負い目や罪悪感というのは思い込みなんだよ。プログラミングなんだよ。幻なんだよ。そんなものから解き放たれて自由に人生を謳歌しようね」というメッセージや活動が広まってきていて、僕も心理カウンセリングの真似事や人生相談のようなことをやっていたことがあるんだけども、まだまだ一般的になったとは言えないよね。

そういう、臨床でない民間的心理カウンセリングの大家ともいえる心屋仁之助さんが、いまだにわりと大手のウェブメディアで叩かれるくらいだから、まだまだ誤解も多く浸透しているとは言えないでしょう。

つまりまだまだ僕らが日常的に、さらに無意識に抱える〈罪悪感〉というものの存在は一般的な認知から遠いし、それを解放しようとするカウンセリング等の活動も、日常から遠く隔たっている。

それでね、僕はいつも、その隔たりを埋めるのが、物語なんじゃないかって思うんです。イーストウッドの映画を観て、負い目や罪悪感に苦しむ人の人生を目の当たりにして、まずは、知る、ということ。それが、あるいは救いになることもあるんじゃないかと。

テレビもネットも、媒体が多様化すると、いろんな雑多な情報が溢れかえっていやになることもあるけれど、良い側面を見れば、人々が難解な書籍などを読まなくともブログやネットであれこれ予備知識を学び、それを友に優れた物語に触れて人生を俯瞰することで、それぞれの負い目や罪悪感の存在を認識して、より心豊かな毎日を送れるようになれば、それは素敵なことだと思います。

僕は、ある程度の負い目や罪悪感は持っていていいと思いますけどね。

話がだいぶずれちゃったけれども、イーストウッドの映画に感服しちゃうのは、そういう一貫したメッセージが、重厚で文芸的な作風の中でも、きちんとエンターテイメントの側面も備えた物語としてじつに完成度高く伝えられている、というところでして、細部のセリフとか伏線とかじっくり何度も見ると、うひゃあと溜息がもれてしまうんです。

でも、許されざる者って、いったい誰に許されないんでしょうかね。そこをつきつめていくと、ずいぶん楽になるんですけどね。

イーストウッドじいさん、今年で八十八歳で、まだまだ現役ですってよ。恐れ入ります。