ディズニー映画〈塔の上のラプンツェル〉が好きだ。〈崖の上のポニョ〉も好きだ。ポニョと言えば、たけしの下品なギャグを思い出したが、叱られそうなので自粛しよう。
先日も、娘が観ているのを横目で眺めていたら、いつの間にか見入ってしまい、ソファの隣に尻をねじこんで夢中になってしまった。
あいかわらず、白馬のマキシマスの動きや表情がユーモラスで、観ているだけで笑ってしまう。それになるほど、あらためてじっくり観てみると、風景やドレスなどの色使い、光の濃淡、カメラワークなど、美しさと陰りが人物の心情とシンクロするように的確に表現されていて、じつによくできている。思わず唸る。
やがて、そういえば俺はなぜこの映画が好きなんだろう?──と疑問が立ちあがる。そういえばなぜラプンツェルは裸足なんだろう?そもそもなんでここまで髪を伸ばすんだ?疑問に導かれて、ますます映画に入りこんでいく。
ラプンツェルは気づいていく──。自分が思いこみをしていたことに。自分のことしか考えていない母に欺かれていたことに。外の世界が怖いなんて嘘だったのね。私は消えたプリンセスだったのね。
俺の内なる子ども、おっさんになっても消えることのないインナーチャイルドが癒やされ、満たされていくのを感じる。ハッピーエンド。ディズニーらしい、希望へ投げ出してくれる心地よい終わり方だ。
それでも釈然としない疑問が残ったので、さっくググる。まとめサイトにはラプンツェルの髪が長い理由だとか、裸足なのはどうしてなのかだとか載ってるけど、なんとなくピンとこない。そして、ラプンツェルもまたグリム童話が原作だったのだと知る。
ディズニー映画の多くはグリム童話を元にしていて、シンデレラの継母や姉たちがここには書けないようなエグい死に方をしていたり、残酷で性的な場面も多いことで知られている。
概要を読んでみると、ラプンツェルも例外ではなく、そもそもラプンツェルとは野菜の名前であったり、彼女は夜ごと塔の上でチョメチョメしていたりと、やはり自粛せねばならないような内容だった。
思ってたんと違うぞラプンツェル笑──。俺は昼飯に食っていたカップ台湾まぜそばが思ってたより辛くてヒイヒイ言いながら苦笑した。
ディズニー映画はいつも、残酷なグリム童話に夢と魔法をかけ、愛と希望に満ちた美しい物語に仕立て直す。恐ろしい物語にも世界の理を見出す。
だからディズニーは世界一のアニメ王国として君臨し、ディズニーランドは俺たちが実際に足を運べる夢と魔法の国だ。俺たちが大人になってもディズニーランドに行くのは、内なる子どもを楽しませているのだ。
でも、俺たちは魔法をかけられるほうじゃない。ウォルトが言うように、俺たちにだって魔法は使える。哀しいことも、辛いことも、苦しいことも、ハッピーエンドにすることができる。生きている限り、自分でそうすることができる。
ゴーテルはヴィランだが、魔女ではない。毒親の象徴だ。だが毒親だってなりたくてなったわけじゃない。自分のことしか考えないのではなく、自分のことしか考えられないくらいに追いつめられた、ただの人間だ。俺たちと同じ──。
魔法とは、それに気づくことだ。グリム童話のラプンツェルは髪を切られ迫害されたが、ディズニーのラプンツェルは愛する人のために自分で髪を切り、自分で、選んだ。選択はいつもここにある。今にある。
だから、塔を降りなよラプンツェル。その裸足の足裏で、心地よい芝生を踏みしめて、行きたいほうへ進めばいい。
俺もまた、台湾ラーメンでも食べに名古屋へ行こうかな。大阪で肉吸いもいいな。最近ビーフカツレツ食べたいんだよな。なんの話やねん笑。ブログのオチも、なんか思ってたんとちゃうけど、まあええか。