バス停でバスを待っていると、唐突に、腑に落ちてしまった。
「あれ?すべては、決まっているぞ──」と。
あるネイティブ・アメリカンの部族には、時間の概念がなく、この世界は、すでに書かれた本であり、起こることはすべては決まっている、という考え方がある。
昨夜、またAmazonでどうでもいいスター・ウォーズのおもちゃをポチってしまったのも、明日、世界が滅びようとも、それは、すでに書かれた本のページが、めくられたか、まだめくられていないか、の違いにすぎないのだと。
この世界で起きる出来事は、ビリヤードのブレイクショットのようなもので、遙か昔にビッグバンが起こったそのとき、すべての球のゆくえ──出来事、現実、歴史は、もうすでに決まっていたのだ、と言ったのは、中島らもだったか。
私の心に強く残っていたのは、漫画〈バガボンド〉の中で、沢庵和尚が天啓を受け、悟った言葉。
──これまでもこれから先も、天によって完璧に決まっていて、それが故に、──完全に自由だ。
そのような考え方がある、というのは知っていたが、まさにふいに、突然、腑に落ちてしまった。いやいや、どう考えても、そりゃそうじゃんか──、という感じに。だからもちろん、論理的な説明はできない。
甲本ヒロトの言葉を借りれば、──ある日突然ピンときて、だんだんわかることがある(歩く花/THE BLUE HEARTS)というところか。
私はその「なんだ、すべてはもう決まってるなら、迷ったり悩んだりすることなんかないじゃんか」という感覚が面白くて、バスに乗車してからも、車窓を流れる風景や、行き先を聞き間違えて運転手に憤慨する乗客などを眺めながら、──ほほう、これもすでに決まっていたことなのか、とほくそ笑んでいた。
そのような観点で、あらためて過去や世界を眺めてみると、なるほど、やはりたしかにそうなのだ、という気がしてくる。
猫派だった私の家に黒く美しいラブラドール・レトリバーがいるのも、彼女がいつまで経っても食糞をやめないのも、離婚したのも、病になったのも、なるほど、決まっていたならしょうがないし、決まっていたのだと思うと、うんうん、そうだよな、といつの間にか納得している。
私が長いあいだショックを受けていた死別も離別も病も、そんなにわるいことじゃないじゃないか、という気もしてくる。
そして、沢庵の言うとおり、なるほど、──すでに決まってるのなら、私は好きなことを選べばいい、何をしてもいいのだ、自由じゃないか、と深く頷きながら、バスを降りた。
銀行で用事を終えると、さて、昼飯に何を食おうかと迷い、最近寒いからと言ってラーメンばかりで身体によくないかもしれないな、と考えもしたが、いや待て、もうすべてが決まっているのなら、好きなものを食べればよかろうと思い、私はそうした。