九月に入っても、まだしばらくは三十度を上まわる日々がつづくみたい。でも、空は少しずつ高く、雲の輪郭も秋らしくなってきたね。
夏はオートバイの季節のはずが、今年もあまり乗れなかった。
あんないいオートバイ買ったのにぜんぜん乗らないじゃない──。別れた奥さんに以前言われた言葉を思いだして、ちくりと胸が痛い。
だからというわけじゃないけど、夏が終わって、金星みたいな殺人的な酷暑が去ったら、秋から冬の入口くらいまでは、ようやくオートバイの季節──、なるべくたくさん乗りまわそうと思ってる。
病を得てから、なかなか乗る気になれなくてほったらかしてたんだけど、いざ真夏のアスファルトを走りだしてみると、自分のなかに躍動する生命感のようなものを感じる。
じりじりと強い陽射しを二の腕に感じながら、信号とにらめっこして、海を横目にR134をかっ飛ばすと、オートバイという乗りものの危うさに昂ぶるものがある。
なんせ股ぐらにロケットを挟んでぶっ飛んでるようなもの──。
その危うさと、それを制御している自分と、猛烈な風を切り裂いている感覚が、おれは生きてる、生きてるんだ──というパワーを感じさせる。
青い鬱屈を溜めこんで血のたぎった若者がオートバイに乗りたがる気持ちが、おっさんになったいまも、よくわかる。
最近は、乗れない日でもシートカバーを外して、陽と風を当ててやる。
それを眺めていると、なかなか乗れないでいたけど、いつでも乗ろうと思えば乗ることができる──ということは、なんて豊かさなんだろう、とふいに笑みがこぼれた。
そのように感じてあたりを見まわせば、そこらじゅうに豊かさが溢れてる。
リビングのピアノ、黒く美しく元気すぎる大型犬、読みかけの本、書きかけの小説、まだまだ動く身体、冷蔵庫のビール──ひいては、ああ、生きていることそのものが……。
失ったもの、足りないものに気をとられていると見えなくなるけど、僕のまわりにはいろんものが溢れてる。豊かさが充ち満ちている。
きっと、何もかもを失ったとしても、この気持ちは消えない──。
それらを感じられずにいたのは、感じられないのは、心配や思考や不安に追われて、僕のなかに余裕、余白、空──スペースがないときだ。
そういう心配や思考や不安は、過去からの反応にすぎないのだと気づいてから、苦労した甲斐もあってか、最近だんだん、空──スペースが生まれる時間が増えてきた。
心の余白には、豊かさや歓び、閃きや創造性、意欲やエナジー──様々なものが入ってくる。入ってくるだけのスペースがあるから。
もちろん、イヤな想像や哀しい過去、恐れや不安だって入ってくることはある。でも、それらはほっておけば、必ず過ぎ去る──this too shall pass.
オートバイをかっ飛ばせば、目の前のことに没頭していたら、まわりにあるものを眺めていたら、やがてスペースが生まれる。
僕はスペースを生きる。スペースにはいろんなものが流れこんでくる。