「誰もわるくないのよ。理解するのに時差があるだけ──」
昔読んだ漫画に、そんなことが書いてあった。
そういやこの前、ちょっとスタイリッシュなビーサンを買ったんです。
リカバリーサンダル、って言うんだってね。リカバリーだから、のんびりチルするときに履く、ってイメージなんだろうね。
いつも、アンと海を散歩するときはKEENの走れるサンダルで、芝生の公園とか森や茂みを歩くときは、mont-bellのサンダルなんだけど、どっちもすごく汚れちゃうんですね。
最近はサーフィンもできないから、海用じゃなくて、街用のビーサンにしちゃおって。
けっこうクールで、気に入ったんだけど、サイズがちょっと大きめでね、それはわざとなんだけど、やっぱりちょっと足が痛い──。
横浜を飲み歩いて家に帰ったら、指の間の皮が剥けちゃってる。
痛いなあ、と思いつつ、でも、履きつづけてたら、だんだん、馴染んできた。
きっと、足の皮が厚くなって、ビーサンの素材もやわらかくなって、双方が歩みよった感じなんだろうな、と思う──誤差が埋まるみたいに。
それなりに長く生きてきて、感じるのは、人生のあれこれ──しんどいこととか、イヤな体験──って、みんな、時差や誤差でしかないんだなって。
暮らしの流れの狭間に、何かと何かの間に生じるのは、ちょっとした時差や誤差──それはやがて埋まるもの。
小さな時差、大きな誤差。すぐに埋まる誤差、なかなか戻らない時差。
埋まる誤差もあるし、埋まらない時差もある。
でも、そういうもんだ──、って思えるようになると、また何かがはじまるんだな。新しい世界がはじまるよな。おもしろいね。よくできてんだ、この世界は。