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オートバイで旅に出て独りでキャンプ場にいると、いつもよりまわりの声が耳に入ってくる。ファミリーやグループで来ている人たちと違って、こちらは誰も話す相手がいないのだから当然だ。

小さな子どもがいる家族だったりすると無邪気にはしゃぐ声が届いてくるのだが、そんな子どもたちの声よりむしろ、パパやママの声のほうが耳につくことが多い。

 

先日訪れたある湖畔のキャンプ場では、木洩れ日が気持ちのいい昼さがりを破るように、どこかのママの怒声が聞こえてきた。

「だめって言ってるでしょ!あんたはどうしていつも何回言ってもわかんないのよ!」

僕は心のうちで「そりゃあきっとあなたの教育がまちがってるからだろう」などと悪態をついて、天をあおぐ。

しばらくするとべつのサイトから、パパが叫んでいる。

「キャンプってのはみんなで協力しあってやるもんだろうが!」中学生くらいの男の子に、テントの設営を手伝えといっているらしい。

どうでもいいけど、せっかくこんなに気持ちのいい大自然の中までやってきて、もっとリラックスして楽しむことができないのだろうか。そういう憤りやストレスを追いやるために、わざわざこんなところまで足を運んでるんだろうに。

僕の独り旅は、まさに独りになるための旅だった。なるべく人と関わらず、話さず、触れあわず、自分だけの時間を過ごすための旅。だからこそ、子を叱る親の声というのはやたらと耳にうるさくて、遠くまできたのにちっとも現実から逃げられないことに、なかばいらいらしていた。

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それからしばらくしたある日。その日僕が居をかまえたキャンプ場は、辺鄙な山奥にあった。目に入る範囲では、僕以外には家族が一組。だいぶなはれたところにコールマン製のグリーンのテントが見えるだけだ。

独り旅も終盤をむかえていたその頃には僕もだいぶ心が洗われていて、他人の視線や物音など気にならなくなっていたのだが、それでもキャンプ場に人が少ないというのは精神的にとても快適だった。

ところが夕方になって、その家族のほうから子どもの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

「パパなんて大嫌い!」

僕は胸がきゅっと締めつけられて、胃の中に重いしこりができたような気がした。しばらく子どもたちと会っていなかったせいもあるだろう。誰とも話さず、触れあわずに何日も過ごしてきたからだというのもあるだろう。佐世保の事件も脳裡にあったかもしれない。いずれにせよその台詞があまりにも哀しくて、心が痛かった。

けれどその家族からは、それ以上なんの声も聞こえなかった。その代わりに陽が落ちた後、みんなでハッピー・バースデイを歌う声が響いてきたとき、僕はハッとした。

小さな子どもが「パパなんて大嫌い!」と言ってしまうような家庭は、うまくいっていないものだと決めつけていたけど、たぶんそうじゃない。むしろ逆だ。まだこの世界の何をも知り得ていない幼子が、そう言ってしまえるのは、パパに甘えきって、信頼しきっているからだろう。

子どもがそう言えてしまう家庭こそ、いつでも帰れる家であり、何があっても自分の味方である家族の理想の形じゃないだろうか。

そんな風に考えていたら、あの湖畔のキャンプ場で怒鳴っていたパパやママにも同情の念が湧いてきた。僕だってキャンプ場で声を荒げたことがあるし、あの人たちだって、好きで怒っていたわけじゃないだろう。毎日辛い仕事に耐えて、子どもたちのために必死で働いて、せっかくの連休には休みたいけれど、それでも子どもたちのためにキャンプへ来ているのだ。

少しくらい感情的になったっていいじゃないか。大人だって泣いたっていいじゃないか。子どもたちに大声をあげたって、彼らはちっともへこたれずに森の中を走りまわってるじゃないか。

親も子も笑顔でわかりあえるような、もっと理論的で合理的な教育方法があるのかもしれない。ゆとりのある心で、落ちついて話し合いをした方がいいのかもしれない。

けれど僕は、そんな「小ぎれいな」家族のかたちを信じない。そんな完璧な家族の話なんて聴いたことない。見たことも聴いたこともないのに、僕はそういう家族を目指して無理をしているうちに、心がパンクして、人生につまずいてしまったような気がする。

ときに感情的になってしまったって、パパなんて大嫌いって言われたって、その後しっかりと抱きしめることができれば、それでいいじゃないか。

そんなことを考えながら朝のコーヒーを煎れて、そろそろ家に帰ろうと思った。まだ早朝だというのに、木々の間から強烈な陽光が降りそそいで、今日も暑くなりそうだった。

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