生きていれば、誰もが大なり小なり傷ついている。傷跡は消えなくても、傷はいつか癒える。愛されなくても、愛することはできる。
まほろという古き良き街で、人々の痛みが空に消えていく。
うつくしい肺を煙で汚してしまえ
いい若いもんが結婚もせず、定職にも就かず、やる気もなくちんたらと便利屋なんぞを営んでいて、そこにまた無職のおかしな同級生が転がりこんでくる。
まずそんな設定が、少なからず僕をしらけさせた。リアリティに欠けるし、そんなだらしねえやつら見たくねえよ。
けれど物語が進むにつれて、彼らが抱えた「過去の傷」がじわじわ浮き彫りになってくると、切ない痛みが湧いてくる。
まほろ駅前で便利屋を営む多田(瑛太)と奇妙な同居をはじめる行天(松田龍平)の二人は、とにかく煙草を吸う。行天などはスクリーンに映っているシーンの半分は煙草を吸っているんじゃないだろうか。
依頼された塾の迎えの車中、生意気な小学生の由良に多田が煙草の煙を吹きかける。
「子どもの前では煙草をやめようとか、そういう気づかいはないわけ?!」悪態をつく由良に対して多田は平然と言う。
「ないね。うつくしい肺を煙で汚してしまえ。それが生きるということだ」
嫌煙家が聴いたら卒倒してしまいそうな台詞だが、この台詞がこの映画のひとつのキーワードであることは間違いない。
生きるというのは汚れていくということだ。傷ついて、痛みに耐えて、傷を癒やしながら前へ進むことだ。それがいやなら死ぬまで温室に入っていればいい。
愛されなくても、愛することはできる
まほろは東京都町田市をモデルにした架空の街だが、日本の古き良き街のイメージに重なるところが多い。
多くの者はまほろで生まれ、まほろで死ぬ。まほろを出ても、だいたいは帰ってくる。街にはスーパーも飲み屋も何でもあって、いい人もわるい人もちゃんといて、世界はまほろで完結している。
行きつけの中華料理屋のオヤジは厨房の中で煙草を吹かしている。今なら食べログで存分に叩かれてしまいそうな店だけど、昔はどこもこんなもんだった。
多田はぶっきらぼうに「オヤジ、餃子もう一枚」と注文し、オヤジも「あいよ」と軽快に受ける。温かみのあるやりとりだ。
親から愛情を受けられない由良は、そんな店で餃子を食べながら大粒の涙をこぼす。哀しいけれど、子を愛せない親はたくさんいる。まっすぐ愛されなかった子どもは、自分の子どもを愛することができないことが多い。それでも多田は言う。
「自分には与えられなかったものを、新しく誰かに与えることはできるんだ」
自分は愛されなかったとしても、誰かを愛することはできる。自分に足りないものを嘆くのではなく、人に与えることができるようになれば、僕らのコンプレックス(劣等感)や痛みは空に消えていくだろう。
すばらしい監督とくるりのメロディ
間がいい。役者の映し方がいい。音楽がいい。
西川美和や吉田大八など、最近は日本にもぐっとくる監督が多いけど、これはまた嬉しくなる監督が出てきた。
ググってみると監督は大森立嗣。なんと本作にも出演している舞踏家の麿赤兒の息子にして、同じく出演してる俳優の大森南朋の弟さん。なんてこったい。
しかもあの花村萬月の芥川賞受賞の衝撃作「ゲルマニウムの夜」を撮った人じゃないのよ。
シーンを繋ぐ印象的なアコースティックギターの音色がたまんねえな、と思っていたら音楽担当は「くるり」の岸田繁で、エンディングテーマもくるり。やられましたねこりゃ。
松田龍平の飄々とした存在感もいいけど、『ディア・ドクター』につづいて瑛太がすばらしいです。ぱっと見、線が細くてインパクトがうすいんだけど、じっくり目を懲らすとその静かな佇まいは心に迫るものがある。龍平の隣で「なんじゃあこりゃあ」が笑えましたね。
ひさしぶりに心がやさしく撫でられる映画でした。平凡なしあわせを思い出した。日曜日の夕方にサザエさんを唄う子どもたちの声が聞こえてくるだけで、僕はこの上ない幸福を感じた。
やっぱりね、闇を知らぬ者に、光もまたないよ。僕も許されたい。許したい。80点。