お義父ちゃんのお墓参りの季節になると、なんだか楽しい気分になります。

ぽかぽかの陽気。澄み切った春の青空。ハナミズキのピンク色の花弁。お寺さんがある浅草の街の喧噪。年に数回しか会わないお義母ちゃんやにいちゃんたちの顔。割烹の鰻御膳とごちそう。不忍池と上野公園の緑。

苦手な冬が終わって、大好きな夏を見越して気持ちがふわふわしてくる春はそれだけで嬉しいのだけれど、やっぱりお義父ちゃんに会えることがなによりも嬉しい。

読経を終えたお坊さんがにこやかな笑顔で「法事というのは故人を偲ぶのはもちろんですが、半分は残された遺族のために行うんですね」と言う。

「みなさんが大好きだった故人も、年月が経てばだんだんと記憶が薄らいでいくものです。それはもうしょうがないことで、むしろそうやって忘れることで私たちは生きていくのであって、年がら年中故人のことを思い出していたら息が詰まってしまうのだけれども、それでも年に一度こうやって集まることで、私たちは故人が望む生き方ができているだろうか、故人が今の自分を見たら褒めてくれるだろうか、空から笑って見ておられるだろうか、というように、自分の生き方をあらためて確認し、反省することができるんですね」

なるほどたしかに、こうして朝も早うから礼服を着て家族で遠いところまで出向いてみると、自然とお義父ちゃんのことを思い出して、なんだかほっこりとした気持ちになっている。

でもお義父ちゃんは、僕が何をしていようと笑っていてくれているような気がする。人の役に立つことをしていようと、情けないこと、褒められないことをしていようとも、全部を許容して笑ってくれる。それがお義父ちゃんだ。

お坊さんは「故人が望むような生き方ができているだろうか」と言ったけど、たぶんお義父ちゃんは「何をやってもいいから、自由に、好きなように人生を歩みなさい」って言ってると思う。「今年一年もがんばったり失敗したりいろいろあったね。間違ったこともやったね。でも大丈夫だから、そのまま進みなさい」って、ニコニコした遺影の奥からそう言われているような気がするから、僕はお義父ちゃんに会うのが大好きなのだ。

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お義父ちゃんというのは家内の父親で、実際僕がお義父ちゃんとすごした時間というのはそれほど多くはないのだけれど、それでもその包容力に僕が包まれていられるのは、お義父ちゃんが自由に生きた人だからだと思う。「自由に生きた」という言い方をするとなんだかカッコよく聞こえるのだけれど、正確には「あんまり人に言えないような、褒められないような間違ったことも、たくさんやってきた」ということだ。

「自由に生きる」「人生をまっとうする」っていうのは、やるべきこと、人の役に立つ大きなこと、人として正しいことを成し遂げることだけじゃないよね。自分の信じた道を信じて自由にあれこれ挑戦していたら、失敗はつきものだし、間違いだって必ずある。でもそうやって自分が失敗や間違いを通過してきたから、他人も世界も許すことができる。言い換えれば、自由に生きることができない人は、失敗や間違いを受け入れられないからなのだ。

だから僕もお義父ちゃんのように生きて、お義父ちゃんのように死んで、残された子どもたちに「自由」を置き土産にしたい。法事のときに「親父に叱られないようにもっとちゃんと生きなくちゃ!」なんてことだけは思われないように、今から好きなことをたくさんやって、やりたくないことは他人に押しつけて、ワガママ言って迷惑をかけて生きようと思います。

もしあなたの亡くなった親族の方が「自分のことはガマンしてがんばって生きた人」であっても、その人に褒められるようにまっとうに生きよう、なんて思わなくていいんじゃないかな?天に昇ったその人はきっと何でも許してくれるから、「あなたのおかげで私は自由になれました。ありがとう」って言って、テヘペロしてればいい。

そうやって自分が許されるからでしょうか、いつもお義父ちゃんの法事の後は、家族全員がいつも以上に仲良しになって、朗らかであたたかい空気に包まれます。

あとさ、法事があるおかげで亡くなったお義父ちゃんのことには年に一度必ず思いを馳せるんだけど、生きている親のことなんかを、こんなふうにちゃんと考える機会ってあまりないんだよね。だから今日は親父に電話してみようと思う。今までありがとうとかお礼を言うのは照れくさいから、どうでもいい話でもしよう。今度また韓国料理でも食べに行こうって。ヤンニョムケジャン食べたーい!