You will meet a tall dark stranger ver2

二日酔いとアレルギー性鼻炎でぐにゃぐにゃになっていた週末の朝、何の前触れもなくウディ・アレンの映画を観たくなってNetflixで探してみると、最近の作品ばかりだけどけっこうたくさん揃ってる。

なんでもよかったんだけど、気分でナオミ・ワッツの笑顔が見たくなって『恋のロンドン狂騒曲』というやつを選ぶ。いかにもロマンチック・コメディの邦題にありがちで苦笑いなタイトルなんだけど、これがすごくよかった。キャッチーなタイトルとは正反対の、皮肉と不条理に充ちたちょっと痛い物語。

よおく考えると痛々しい映画なんだけど、「でもそれも含めてまあ人生じゃないのよ」という軽妙さとあきらめこそがウディ・アレンのスタンスなので、こういうどうしようもない邦題にすることで彼らしい軽さが消えなかったのは結果オーライかもしれない。

アレンが描くのは、のっぴきならなくなった男女の恋の群像劇が多いけど、そんな、わかっちゃいるけど止まらない恋に溺れたり、努力や才能や運があったってそんなことは関係なく、ダメなときはダメだしうまくいくときはうまくいくというような人生の不条理を、精液臭い十代やそこらの小僧にわかるはずもない。うんうんわかるよ、という若者もいるかもしれないけど、そういう人とはあんまり友だちになりたくはない。年をとって切ない「あきらめ」を重ねてきた者だけがわかる境地もある、なんて言うのはぼくがおじさんになった証拠か。

ywm2

個人的におもしろく感じたのは、主要キャラクターの一人であるヘレナという老女(ナオミ・ワッツのお母さん)が占い師にハマって、徐々にスピリチュアルの沼にどっぷりと浸かっていく様子と、彼女のまわりの人たちの反応だ。アレンの映画なので、そこはシニカルに笑えるよう滑稽に描かれてはいるものの、ヘレナや占い師が言う徹底的にポジティブで直接的な言葉の数々は、決して大げさではない。

たとえばテレビに出たり本が売れたり大人気の心理カウンセラー・心屋仁之助さんは、「人生はがんばるのをやめるとうまくいく」と言う。常識的に考えたら「何言っちゃってんの?頭イッちゃってんの?」って感じだよね。でもぼくは心屋さんのおかげで人生が開いたクチだから、それに影響されて「がんばらないで好きなことだけやろう」「親をやめよう」なんて直接的な言葉を使っていた時期があるんだけど、やはりまわりの人たちの幾人かは、ぼくが怪しいスピリチュアルな方向に進んでしまうんじゃないかと心配してくれていたらしい。余計なお世話だけど。

その頃のぼくは、「ちょっと考え方を変えるだけで生きるのってずっと楽になるよ」というのを教えてあげたいというおせっかいで、「心屋さんが言ってるんだけどね……」と、あれこれ話したり書いたりしていたんだけど、それって本作でヘレナが「クリスタル(占い師)が言ってるんだけどね……」とオウムの伝言ゲームみたいに繰り返すのとまったく同じなんだよね。ぼくはこんな風に見られていたのかもしれないと、思わず吹き出しちゃったよ。

ywm4

人はみんな、常識や伝統や親の刷り込みによって定められた価値観で生きている。でもそれはあくまでも刷り込みなので、人によっては生きるのがしんどくなる。そこでちょっと(あるいはだいぶ)考え方を変えるとすごく楽に生きられるよ、というのを心屋さんなんかは教えているんだけど、それを法則と見なして「原理原則」だとか「宇宙の法則」だとか「神の道しるべ」なんて呼べば、それは一瞬にして怪しいスピリチュアルや宗教になるし、生々しくておかしい脚本の底に潜ませれば、ウディ・アレンの映画になる。そういう違いがあるだけじゃない?

ヘレナの義理の息子で売れない小説家のロイ(ジョシュ・ブローリン)は、スピリチュアルに傾倒していく義母を馬鹿にしまくってるけど、根っこにあるものはスピも小説もそんなに変わらないということだ。すべてに光をあてて解き明かそうとすればどうしても原理的な思考や言葉遣いになって現実から剥離するから端から見れば怪しくなるし、すべてを解き明かすのをあきらめて(あるいはあえてやらずに)、苦しみも切なさも含めて人生のほろ苦さを受け入れれば、それは表現にだって昇華する。「マトリックス」や「カンフーパンダ」だってスピと同じこと言ってるだけだよね。

そうそう、ぼくは決してスピは嫌いじゃないんだけど、スピにすがっている人たちの狭量さにはときどき辟易する。元の原理は何よりも寛容で「現実は全部オッケー!」って言ってるのに、すがっている人たちは「あなたのその考えじゃ幸せになれない」と、非常に厳しい。そしてそれに気づいていない。教祖は「隣人を愛しなさい」と言っているのに宗教戦争ばかり繰り返してきたどこかの歴史にも似ている。

もうちょっと続けると、「原理原則」とか「宇宙の法則」とかって、言葉の響き自体が怪しいだけであって、存在自体は間違いのないもの。言い換えれば「道理」とか「因果」とかのことで、「こうしたら、こうなる」っていう当たり前の理(ことわり)。ビリヤードの球を打った瞬間に、球がどう進むのかが決まっているように。棒の片方を持ち上げたら、もう片方も持ち上がっているように。そういう「あたりまえの道理」を理解できれば、自分の心が動く仕組みもわかるから、現実的な悩みや苦しみや問題の正体が見えるよっていう話。

数多の財界人や経営者に慕われた哲人・中村天風の本の著者が

原理だけを説くと、現実から遊離する。現象だけに生きると、現象に塗(まみ)れる。

と言ってるけど、まさにその通りですね。原理と現象の間をどう繋ぐのか。物語?カリスマ性?音楽?なんでもいいんだけどね。

個人的なことを付け加えれば、ぼくにとってその「こころの仕組み」を知り得たことは素晴らしい経験だったし、これからの人生にも大いに役立つだろうとは思っているけど、それらを直接的な言葉(原理)で伝えるのはもうやめようと思ってる。正しいとか間違ってるとかじゃなくて。単純な話、もっとシックに表現したい。もっとカッコよくやりたいってことだ。

さてさて話を映画に戻そう。多少は内容にも触れておかねばならないだろうから、超ざっくり説明すると、二人の中年夫婦とその奥さんの両親の四人が、いろんなことを怖がって、不安になって、幻想を信じたり、現実に追い回されたりして、それぞれが別のパートナーを求めた挙げ句にのっぴきならなくなる物語です。うん、ひでえな。これじゃ誰もわからないよな。まあ字面じゃ伝わらない映画なので観てください笑。

タイトルの話に戻るけど、原題は『You Will Meet a Tall Dark Stranger』。直訳すると「あなたはいずれ黒くて背の高い男に会うでしょう」だけど、これは占い師の常套句らしくて、「近いうちに素敵な男性があらわれるでしょう」みたいな意味らしい。インチキ占い師って、いいことしか言わないっていう皮肉なんだろうけど、スピの原理だって「起こることは全部いいこと」なわけだから、まったく違うというわけでもないんだけど。これはヘレナが占い師に言われる言葉で、それに対してウディ・アレンはロイの口を借りて「黒くて背の高い男って死に神じゃねえの?」と、らしい皮肉を言う笑。

でもね、最後まで観て感じたのは、ウディ・アレンって、皮肉屋で斜に構えた変わり者のリアリストだけど、けっきょくラストで笑っていたのって、「薬より幻想が効く場合もある」って言葉どおり、「信じた者」なんだよね。本作の軸は「現実対スピリチュアル」だけじゃないけど、あの美しいラストシーンを観ると、ウディも悟りの境地かな、なんてことを思ったりもした。

なんてごちゃごちゃ書いたけど、お洒落な音楽やロンドンの街並み、ミドルクラスやアッパークラスの生活など、ウディ・アレンらしい素敵な女子力要素もたくさんあるので、そっちも楽しめるんじゃないかな。

サントラすごくいいですよ。Amazonでも売ってるけどAppleMusicにもありまっせ。