熊の宴会とアルコールと平らな日。

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最近はフィジカルを優先していて、食事やお酒、運動に気を配って、まずまず節制した生活を送っているんです。ところが先日思いもよらず、家内と夜中すぎまで盛大に呑んで食ってしてしまい、翌日を二日酔いで台無しにしてしまいました。

村上春樹さんは、このような状況を「熊の宴会」と呼んでいます。

「ダイエットをまじめに実行しているのだけれど、ある夜中にふと気がゆるんで、なんか知らないうちにビールをぐびぐび飲んで、そのへんにあるものをぱくぱく馬鹿食いをして、朝になってそのすさまじい残骸を目にして、『ああ参ったなあ』と後悔する」

毎日運動を欠かさず、ウルトラマラソンやトライアスロンに出たり、執筆を優先するために生活や人づきあいまで変えてしまうほどストイックな世界的作家ですら、こうして気がゆるんで「ああ参ったなあ」と後悔してしまうことがあるというのは微笑ましいし、なんだか勇気にもなります。

ぼくはアルコールの分解酵素がもともと少ないのか、体力がないのか年のせいかわからないけど、長い時間たくさん呑める代わりにかなりお酒が残るタイプで、いちばんひどいときには四日酔いとか五日酔いとかになるくらい、いつまでも不調と憂鬱を引きずっちゃうんです。

過日は疲れていたせいか酒量としては大したことがなかったんだけど、翌朝のぼくの身体はまだどっぷりとお酒に使っている奈良漬けのようで、いつもと変わらない日常の風景に、甘く心地よいベールがかかっているようでした。まだけっこう酔っていて、苦しい二日酔いにまで達していない状態なんですね。

ぼくも春樹さんのように「ああ参ったなあ」と後悔する反面、「でも足掻いてもしょうがないよな。今日は一日台無しにしよう」という諦めがつくと、だんだん気持ちが軽くなってきます。たいていは布団に戻ってiPhoneをいじったり、iPadにヘッドホンをつけて映画やYouTubeを眺めたり、Kindleで肩の凝らないエッセイを読んだり、高機能で便利なデバイスが自堕落に拍車をかけ、楽な姿勢で無為で無駄な時間を過ごし、お酒で満腹中枢が麻痺しているせいか猛烈な空腹感を抱えて、家系とか二郎系のこってりとしたラーメンなんかをがつっと食べて、気休めの液キャベを流しこんで、また布団に戻って無駄な時間を再開する、という人間失格コースになります。

けれど数年前から、この「熊の宴会の残骸」のようなダメ人間の一日も、まんざら無駄ではないらしいぞ、ということに気がついてきたんです。いやむしろ、ぼくのような人間にとっては、定期的になくてはならない時間なのかもしれないとすら、最近は思います。

というのも、ほどよくお酒が残った心地よい「残骸」の時間には、ふだんならとても思いつかないような自由な発想がどんどん生まれてくるんです。これはおそらく経験してみないとピンとこないと思うんだけど、何か新しいことを考えようとか建設的な思考をしようとかいう意図でなしに、ネットや動画や映画をのんべんだらりと楽しんでいる最中に、勝手に愉快なアイデアが次々に生まれてくる。生まれてくるというよりは、ずっと頭のどこかにあったアイデアが、ゆるんだことで目に見えるところに表出するという感じでしょうか。頭蓋骨にぽこんと穴が開いて、そこから水が流れ込んでくるように、それこそ湧き出るように、じゃぶじゃぶと。

これはおそらく、お酒によって不安を司る神経が麻痺していながらも、論理的な思考ができるくらいには脳が働いているという、ある意味で理想的な状態なんじゃないでしょうか。通常、酔っぱらうと気が大きくなって不安が霧散するけれど、その代償に思考自体が鈍ってしまいます。けれどほどよくお酒が残った翌日に、やらなければならないしんどい仕事やタスクがなく、そこに「今日一日台無しにしてしまおう」という諦念と自分への許可が加わると、「人生におけるあらゆる不安が無い状態で、時間に追われることなく、自由な発想がどんどん生まれて、かつ論理的な思考を継続できる」という、創作をする者にとっては理想の状態が生まれるんじゃないでしょうか。

バージョン 2

ここまで考えて思い出したのが作家の中島らもさんですが、生前のらもさんと言えば、自らのアルコール依存体験を書いた代表作『今夜、すべてのバーで』からもわかるように、生涯を通してアルコールや薬物に依存しつつ、数多のすばらしい小説やエッセイ、コント、お芝居、広告などを残した才人です。

らもさんはとにかくお酒が好きで、もうそのことを説明するだけで本が一冊書けるどころか、小説やエッセイなどたくさんの作品に反映されていますが、生涯をお酒でびたびたにしながら生きたらもさんもまた、ぼくが「熊の宴会の残骸」で手に入れた「創作する者にとっての理想の脳浮遊状態」を求めて、いつもお酒を飲んでいたんじゃないかと、あらためて思い至ったのです。もっと言えば、らもさんはお酒を飲まねば書けなかった。創作にはお酒が必要不可欠だった。

バロウズの『裸のランチ』、ビートルズの『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』なんかを例に出すまでもなく、ジミー・クリフの『I can see clearly now』だって、ボブ・マーリーだって、音楽だって絵画だって小説だって、ドラッグやアルコールによって解放された鋭敏な感覚で創作された表現は数多に存在します。

そうやってアルコールやドラッグの助けを借りて生まれた創作物を不純だとは思わないけど、傑作を生み出すために自分がそうするかと言われれば、答えはもちろんノーです。そもそもドラッグは違法なので論外だけど、アルコールだって「その後」が大変なんですね。

「熊の宴会の残骸」の日は、心も脳も開いて発想が自由になって、かつまだすこし酔っているので気分も悪くないと書いたけど、「その後」には逃れようもなくちゃんと二日酔い、あるいは三日酔いが待っているのです。それは肉体的に苦しい、たとえば便器を抱えて嘔吐しつづけるとか、そういうことだけじゃなくて、いつもより不安になるとか、情緒不安定になるとかの、「精神的な混濁(こんだく)」のほうが大きいです。日常が濁るんですね。お酒を飲んで多幸感を味わった分だけ、その後には同じ分量の憂鬱に包まれるのだとぼくは解釈して「二日酔いブルーズ」と呼んでいますが。若いときはあまりなかったですけど、年をとると二日酔いはからだでなくこころを蝕みます。

そうなると健全な生活を営むことがむずかしくなるので、いつも馬鹿みたいにお酒を飲むわけにはいきません。らもさんなんかは身体がアルコールに強いんじゃないでしょうか。西洋人にアルコール依存症の人が多いのは、もともとアセトアルデヒド分解酵素が多く、お酒を「飲めて」しまうからなんだそうですし、ぼくの場合はお酒によるダメージが大きいので、依存症にならないですんでいるだけかもしれません。

らもさんは病院に担ぎ込まれる直前、十日間もの連続飲酒をしていた頃は、朝起きると歯を磨く代わりに冷蔵庫を開け、瓶ビールを飲みながら窓の外を歩く通勤のサラリーマンを眺めてにやにやしていたそうですが、そこまでやる勇気をぼくは持ち合わせていませんし。

やっぱりぼくは、らもさんよりは春樹さんを見習って、日々節制した生活を送りつつ、たまに意図せず熊の宴会をやっちまって、「ああ参ったなあ」とうなだれつつ、創作の喜びを得られることに期待するくらいがいいのかもしれません。

春樹さんは『職業としての小説家』というエッセイの中で、「創作のためには精神的な”タフさ”が必要であり、そのためにはフィジカルの強さが必要だ」みたいなことを書いています。他人の批評や価値観に屈することなく自らの言葉を世に放ちつづけるためには、こころを強く保たなければならないということでしょう。春樹さんはそこで、自分で生活をコントロールして、毎日しっかりトレーニングをしてフィジカルの強度を上げることで、常に精神的にタフでいられる状態にしているんですね。

逆に春樹さんのような自己管理力の乏しい人は、ドラッグやアルコールで不安を見えなくすることで創作に励むことができるのでしょう。

だからぼくは、毎日適度に家事をやって、週に二回くらいジムでゆっくり泳いで、ふだんはあまりお酒を飲まず、静かに穏やかに「平らな日」を暮らすという「春樹流」の生活を営みながら、たまに熊の宴会の残骸で「らも流」のインスピレーションを受けて、何かを表していけたらいいなあとぼんやり思っています。そのとき得たインスピレーションをふだんの日に言葉に変えていく作業という感じでしょうか。

感覚が鋭敏になる残骸の時間には、音楽も素晴らしく解釈できるんですけどね、それはまた別の機会に。さようなら。