Nanimono1

イマドキの若手俳優勢揃いなのでよくある恋愛ものかと思ってたんだけど、朝井リョウさんの原作読んだら抜群におもしろかったので観てきましたよ『何者』。なんだよこれめちゃくちゃこええじゃんホラーじゃん。

本作は就活に追われる六人の男女を描いた物語ですが、就活はあくまでも題材であり舞台でしかありません。ツイッターやフェイスブックのようなSNSを日常的に使っている人にとっては年齢を問わず、背筋がすっと冷たくなる社会ホラーだし、人の間で生きる人間なら誰しもに通ずる普遍的な物語です。

こっから超ネタバレするのでこれから観る人は読まないでね。怖いもの見たさの人は指の隙間から読んでね。

SNSでリア充アピールする人を冷徹にこきおろす。

就活生の主人公・拓人(佐藤健)は鋭い観察眼と分析力を備えたクールな男。演劇の脚本を書いたりしているせいか、同年代の仲間たちより落ちついて世界を俯瞰しています。

仲間にもらった寄せ書きをSNSで発信する人に対しては……

想像力がない人は、絶好のチャンスだと言わんばかりに、こういうものを外へ外へと発信する。自分はこんなにもがんばってきたと、自分はこんなにも愛されていると、そう思われるために思い出を外へと発信する。

仲間内で完結すべき喜びを、自分をよく見せるために使ってしまう感情を……

光太郎は、その事柄に全く関係の無い人が「最高の仲間!」とか「みんな大好きありがとう!」とかそういう文面を見たとき、瞬く間に心が冷えていくことをきちんと想像できる側の人間だ。

まだ何も成しえていないのに、夢や目標に向かう途中段階の努力や思想を発信する人たちに……

ギンジは今、誰にも伝えなくてもいい段階のことを、この世で一番熱い言葉をかき集めて、世界中に伝えようとしている。自分にしかできない表現。舞台は無限。甘い蜜でコーティングをしたような言葉を使って、他人に、理想の自分を想像してもらおうとしている。

などなど、原作にはもっと出てくるけど、みんながうすうす感じている、SNSにおける自己顕示欲や承認欲求、自分をよく見せたい、幸せアピールといった気恥ずかしい部分が生々しく言及されます。

ぶっちゃけここは気持ちいいです。ぼくも自分のことは棚に上げて「いるいる、こういう恥ずかしいやつ笑」とせせら笑いながら見ていました。と同時に、ぼくだってこういうふうに痛い奴だと見られてるんだなあときまりが悪い。

ぼくもあいつも誰も彼も、かまってほしいんだよなあ。寂しいんだよなあ。本当は寂しいのにネットでは楽しそうに見せようとするんだよなあ。ぼくだってスタイリッシュな海辺の写真に「海はいつもぼくを癒やしてくれる」なんて恥ずかしいキャプションをつけてインスタグラムにアップして、でも本当はそのとき独りでやることがなくてやるせなくて溜息をこぼしていたことだってあったさ。

そんなに盛り上がってないイベントや飲み会なのに、参加者の一人が「今日もまた最高の出会いをしてしまった!」なんて写真をツイッターに上げていると苦笑してしまうでしょう。本当に楽しくて幸せな人はSNSで「最高に楽しい!」「幸せだ!」なんて言わない、とか。「最近どう?」って訊く人は自分の近況を言いたいだけ、とか。そういう見られたくない心の裏側をズバズバ突いてくるんですね。

みんながうすうす感じながらも口にしない暗黙のタブーを、生々しい描写で明らかにされるとどこか清々しいものです。誰だって多かれ少なかれ拓人のようないやらしい観察者の一面を持っているわけで、かつてのビートたけしさんや爆笑問題がラジオやテレビでタブーをひときわ偽悪的に喝破するのにも似て、聞いているほうは他人事として心地よい。トランプ氏が勝ったのだって、アメリカ人が「言っちゃいけない本音」をバンバン言っちゃったからですよね。

え!バレてた!?

自分を棚に上げて「他人事」として傍観しているぶんには心地よいのだけれど、それだけで終わらないのがこの作品の愉快で怖いところ。

クールでスマートな観察者・拓人が、じつはツイッターの裏アカウントを作っていて、仲間たちを冷徹に分析して馬鹿にしてせせら笑っていたことが、みんなにバレてしまうんですね。というか、みんなとっくにそれを知っていながらつきあってくれていたということが判明する。ひそかに思いを寄せる瑞月ちゃん(有村架純)まで!

うひゃあ、こんなおっかないことってなくないすか。ぼくが十年以上前に家でう〇こ漏らしてこっそりパンツをゴミ捨て場に捨てたことを家内に告白したらそんなのとっくに知ってたよって言われたときの衝撃を遥かにしのぎますよ。ゾクゾク!

構図としては大どんでん返し映画の代表とも言える『シックスセンス』に近くて、「じつはみんなを馬鹿にしていた」という秘密が発現してからあらためてこれまでのストーリーを再現して「ああそうだったのか」と得心する感じなんだけど、シックスセンスと違うのは「スマートでカッコイイと思っていた自分がじつは一番最低だった」という突き落とされる高低差がとてつもないってことですね。ぼくが好きな花村萬月さんの『ブルース』という小説がまさに同じ構造なんだけど、あまりにネタバレばかりするのも野暮なのでやめておきましょうか。

拓人は、影で仲間をせせら笑っていたから最低なんじゃないんです。傍観者ぶって、他人を観察して分析するだけで、自分は結局何もしないからダサい。「あいつカッコ悪いよな」って何もしない奴が一番カッコ悪い、そりゃそうだ。百点になるまで出そうとしないより、十点二十点でも世に出しつづけて、ツイッターで自分のがんばりを人に発信しちゃっても、みっともなくても、ダサくても、やりつづけようよっていう、原作にも込められていたラストの希望が映画でもうまく表現されていたのには感服しました。

拓人が理香さん(二階堂ふみ)に言われたように、ぼくもたまに自分が書いたものやツイートを読み返して悦に入ることがあります。俺いいこと言うなあって自分にうっとりしているその姿は我ながらダサいしそうとうみっともないんだろうなあという自覚もあります。

けれどそんな自己陶酔や自己憐憫を含めて、ぼくらはしょせんそんなみっともないもんだし、何かを表現したり、創作する者には、自分の表現に対するある程度の陶酔や昂ぶりは必要なんじゃないかとも思います。冷徹な客観はもちろん必要だけど、自分が惚れるくらいのものを創らなくて、誰の心を動かせるだろうか。

拓人は演劇、親友の光太郎(菅田将暉)はバンドと、二人とも「自分を見せる」表現の道を志していた。原作者であり小説家の朝井リョウは、そういう表現者ならではの自意識をも描いていたように思います。

ぼくらは「何者」かになんてなれない。

「あんたは、誰かを観察して分析することで、自分じゃない何者かになったつもりでいるんだよ。そんなの何の意味もないのに」

どんなクソみたいな人生を送っていようと、どんなにゲスいことを考えていても、インターネットでそれなりの発言をすれば、自分ではない「何者」かになれてしまう。でも理香さんの言うとおり、そんなの何の意味もない。

「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」

ネットに限らず、他者に対してどれだけ「何者」かを「演じた」としても、何者かに見えたとしても、もちろん自分はひとつも変わらない。ネットで幸せなフリしたら、余計に苦しくなる。

「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんなそれをわかってるから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままあがくんだよ」

誰かになろうとするのはもうやめようぜ。カッコ悪くたっていいよ。決めた道を、やりたいことを、「何者」でもない自分のまんまでやっていこうよ、って、ホラーのくせに最後は前を向かせてくれた。

ツイッターやフェイスブックで幸せアピールしちゃっても、かまって投稿しちゃっても、努力や過程を見せちゃっても、カッコつけてそれらしいこと呟いちゃったとしても、それで立っていられるなら、そうすることで歩みを進められるなら、カッコ悪くたってやればいいよ。だいたいにおいて、他人はみんなうすら寒いもんなんだよ。

ぼくも自分にそう言い聞かせて、カッコ悪いまんまやっていくことにしまーす。