R0000996

先日、近所に串カツ屋さんができたというので、さっそくママちゃんと飲みに出かけてきた。

安くておいしいベタベタの大阪風のお店で、肉吸いとか鯨ベーコンとかもあって、大衆居酒屋好きのぼくらは喜んでパカパカジョッキを重ねていた。

ママちゃんが新しい生ビールをひとくちすすると、ふふっと笑いながら言った。

「レモンの風味が効いていておいしい」

というのはじつは皮肉で、おそらくレモンサワーかなんかの洗い残しの風味がジョッキに残ってしまっていたのだろう。ぼくも飲んでみたが、たしかに生ビールなのにかすかにレモンの香りがぷんとくる。

「取り替えてもらう?」僕が訊くと、彼女は笑って首を振る。「ま、いいじゃないの」

ぼくらは二人でそうだねと頷いて、紅ショウガやアスパラの串カツをほおばって、またビールやハイボールを飲んだ。

ぼくはそのとき、花村萬月さんの『ワルツ』という小説を思い出していた。終戦直後の新宿が舞台の物語で、闇市の様子が生々しく描かれている。当時は物資が不足していて、進駐軍の残飯をドラム缶で煮た「残飯シチュー」なるものが人気を博していて、他にも得体の知れない食べもの飲みものがたくさん供されていたという。

だからというわけでもないが、きちんと洗浄されていない「不潔」なジョッキが、ちっとも気にならなかった。

ひさしぶりに夫婦水入らずの時間を持てて、気持ちに余裕があったのかもしれない。不器用ながらも一生懸命働く若い店員たちの姿を見て、ともにかつて飲食業に就いていたぼくらの情が移ったのかもしれないし、単に酔っぱらって気持ちが大きくなっていたのかもしれない。

洗い残しのあるジョッキっていうとなんだかいやな気がするけど、それを「レモンの風味が効いている」って言ってのけるママちゃんは偉大だと思う。

そしてぼくもまた、夏に親父が死んでから、人生とか世界とかを、以前よりは広く大きく眺められるようになってきたような気はする。うんこの匂いがするとかならともかく、レモンの匂いのビールを飲んだって死にはしない。むしろ粋じゃないの。アメリカ兵の残飯を煮こんだシチューに比べたら、こんなに幸せな味もないもんだ。