僕に踏まれた街と僕が踏まれた街

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 四月頭に引っ越すことになりました。茅ヶ崎から茅ヶ崎へ。

 どこか別の地域に移住したらこのブログの名前も「茅ヶ崎の竜さん」から、たとえば「南青山の竜さん」とか「伊豆下田の竜さん」とか「ブルックリンの竜さん」とかに変えるつもりだったんだけど、市内なのでそのまんま、今後も引きつづき茅ヶ崎の竜さんです。よろしくどうぞ。

 それにしても、新居のための買い物に子どもたちの転校、役所手続き、家族五人分の荷造りに不要品の廃棄など、やることが山のように溢れていて、よくもまあみんなしれっとした顔でこんな大変な引っ越しなんぞをしてるもんだと感心してしまいましたよ。まあよく考えてみたら、面倒なあれこれをせっせとこなしてくれているのはほとんど家人でありまして、僕はそんな偉そうな口をきくほどに働いてはいないのだけれど。

 しかしまあ、言うても夢のマイホームですよ。今の時代、四十二歳で家を買うというのが早いのか遅いのかよくわからないけれど、そもそも昔と違って「家を購入する」ということの価値がずいぶんと変わってしまっているので、「夢のマイホーム」という言葉自体が死語になっているとしても、やっぱり人生で一番高い買い物をする、というのは感慨深いものがありまして、大好きな茅ヶ崎という街で、しかもより海に近い素晴らしい環境に恵まれたので、非常に喜ばしいはずなのに、肝の小さい僕なんぞはドキドキして毎晩なかなか寝つかれず、親父が亡くなったことによる気枯れがまだ完全に回復していないこともあってか、落ちつかなくてビールやウイスキーをあおったり京都ラーメンや焼きめしを暴食しまくりながら、どうにか地に足を着けてなんだかんだとのどかな毎日を送っております。

 そして、ようやっと<終の住処(ついのすみか)>というやつを手に入れるとなると、ああ、僕はこの茅ヶ崎という街に一生根を張って、ここで泣いて笑って生きて骨を埋めるのだなあという、決意のような覚悟のような、静かだけれど確かな喜びをかみしめると同時に、これまで住んできた街を思い出してはおセンチな気持ちになったりしています。

 中島らもに『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』っていうイカすタイトルのエッセイ集があるんですけどね。おセンチメンタルで素敵な本ですよ。

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 まず、十年ちょっと前に茅ヶ崎に移住してくる前は、埼玉県の某市に二年ほど住んでいました。定職にも就かずのらりくらりと遊んでいた僕もようやく結婚して、家人の実家がある街に転がりこんで、幼い長男と三人、オンボロアパートで仲睦まじく暮らしていました。

 とくべつ素敵な何かがあるような街ではなかったけれど、駅の立ち食いそばと台湾料理屋によく通って、当時は映像の撮影や編集ばかりしていたなあ。もう三十近いのに、まだ何者でもなく、何者になりたいのかすらおぼつかない僕は、文章を書いたり映像をつくったり、バタバタとみっともなく足掻いていた頃です。まあ僕はいつもみっともなく足掻いてますけどね、たぶん死ぬまで。駅前の風風ラーメンでは何百冊の漫画を読んだのだろう。

 その前は、目黒区の東急東横線学芸大学駅に、大学に入ってからだから七年くらい住んでいたのかな。うわあ、七年?高校の寮を出てからの眩しくて濃密な青春の日々の思い出のほとんどは学芸大につまっているのに、あれってたった七年間しかなかったのか!いつの間にか茅ヶ崎にいる年数の方が多いんですね。まったく年をとると時の流れの速いこと早いこと。

 学芸大での日々は思い出がありすぎて語り尽くせないけど、バイト先で朝まで飲み明かしたり、早朝に先輩と碑文谷公園でギターをかき鳴らしたり、原チャリで走ってたら三軒茶屋のほうの暴走族につかまって「どこ中(ちゅう)だよ!」って凄まれて「いえ、大学生です」って逃げたり、駒沢公園でバスケしたり、新聞の勧誘のおにいちゃんと乱闘したり、恋をしたり不徳を働いたり、裏切られたり裏切ったり、どこにでもある馬鹿な大学生の阿呆な日常の積み重ねではあったものの、どれもやっぱり輝いておりますな青い春の頃の記憶ってのは。ジャズしか流れないモンゴメリーってラーメン屋さんまだあるのかな。店主は無愛想だったけど家系の担々麺は絶品でした。

 中学高校は千葉の山奥のキリスト教系の私立男子校の寮に閉じこめられて、国際的なんだか閉鎖的なんだかよくわからない特殊な環境の中で偏った価値観を育みながら、青山の実家に帰ったときは新宿歌舞伎町の映画館にばかり通っていました。今考えると、厳しい親父だったけど、映画のチケット代だけはいくらでもくれていたなあと思い出します。おかげで僕にとって映画というのはどんなときも前へ進むためのかけがえのない礎と道しるべとなったし、僕も自分の子どもたちには映画代を惜しまず好きなだけ見させてあげるようになりました。

 幼少期にまで遡ると、小学生までは山梨県大月市の親戚の家に預けられていて、田舎の本物の山や川の中で泥まみれになって育ちました。「本物」の山や川、というのは、子どもだったらいざとなれば死ねるくらいの自然ということですよ。バガボンドの武蔵よろしく大自然が師であり親であったような、というのは言い過ぎだけど、青山という都心に実家がありながら、ぼくが海や山や自然に惹かれるのは、やはり大月での日々が原体験となっているのでありましょう。

 小六の時に転校したんだけど、大月の小学校の牧歌的なクラスメイトたちは「竜くんさようなら〜」なんて言って涙ながらに送り出してくれたのに対して、青山の小学校では大人びた女の子たちに「ながやま〜あんた○○ちゃんのこと好きなんでしょ〜」なんていきなりスゴまれて、都会はおっかねえなと思いました。ぼくが本当に好きだったのは、スゴんできたその女の子だったんだけどさ。

 そんなこんなで、いろんな田舎や都会の街に踏まれたり踏んだりして大好きな茅ヶ崎という街に辿り着いたのですが、移住を決めたのは、当時書いていたブログの読者さんで茅ヶ崎在住の方がコメントで誘ってくれたからで、あれがなかったら今の僕らはここにいないと思うとなんとも感慨深いものがあります。このブログ読んでくれてたりしないかなあ。元気ですか〜?「日常舟」ってブログ書いてたの僕ですよ〜。

 そうやって振り返ってみると、僕の人生の大切な局面というのはたいてい誰かに導かれていて、たとえば長男が生まれたおかげで僕みたいないい加減な野郎が家人と一緒になることができたし、長女が生まれたおかげでさすがにきちんと就職せねばと思い、就職したら引っ越せなくなるからずっと住みたかった海辺の街に移住してから仕事を見つけようと茅ヶ崎に移り住み、次女が生まれたおかげで好きでもないのに無理やりやっていた仕事と決別することができたんです。
 成り行きの後手後手人生と言われればそれまでだけど、大切な「家族」も、大好きな「街」も、人生の「自由」も、いつも誰かが運んできてくれたものだと僕は思っています。もちろんどんなときも、僕の選択に一切文句を言わず、すべてを「許して」くれる家人の存在が一番大きいのですがね。

 それから僕は、これまでの来し方を見つめてみると、自分が何者かわからなくて、いつも何者かになりたくて、何者になっていいのかすらおぼつかなくて、戸惑い、慌てて、右往左往してきたなあと恥ずかしくうつむきながら感じるのですが、こうして不惑を越えてみてようやく思うのは、「おや?どうやら僕は何者かなどにならなくていいのではないか?」という真理めいた確信です。おまえは成長も変化もしないでそのまんまでいいんだよ何言っちゃってんだよ、って、ようやく思えてきました。そこまでにはずいぶんと長い時間がかかったけれど。

 そういえば、古代中国の自然哲学では、青春の次には朱夏(しゅか)っていう季節が続くんですが、やっぱり夏は燃えるように朱(あか)いんですね。季節は今まさに春を迎えようとしているけれど、人生を大局的に眺めると、青春のモラトリアムや迷走の長かった僕にも、ようやく朱い夏の人生本番が来たのかなあ、なんて気がしています。

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 いつだって、いくつになったって、夏も人生もこれからですから。

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