二年前の夏に親父が逝ってから、ずっと旅に出ていたような気がする。
不惑のおっさんが自分を見失って、罪悪感と自己否定を拾い集める旅。
道しるべのない旅は思いのほか長引いて、帰ってくるまでに二年もかかってしまった。
親父が格好よすぎて、でも同時にひどくダサくて、親父に憧れすぎて、でも同じくらい嫌いで、親父を超えたくて、でも違う道を歩みたくて、そういう相反する気持ちが、親父の死によって一塊になって襲ってきて、思春期のガキみたいにパニックになってたんだな。
今ようやっと、二年もふらふらして、もといた場所、自分がそのまんまのおっぺけぺーな自分でいていい〈居場所〉に戻ってきた気がする。ただいま世界。
自分を呪うということは、世界を呪うということ。
自分を否定するということは、他人を否定すること。
世の中をくだらねえと嘲笑し、みんなを見下し馬鹿にすることで、どうにか自分を保っていた暗黒の時が、僕にもたしかに、あった。
おもしろいことに、この二年間の写真ライブラリを眺めてみると、お気に入りのGRで撮った大量の写真の大半はモノクロで切り取られていた。
けれど次第に、自分でも気づかないうちに、モノクロがやさしいエフェクトに変わり、いつしかそのままの色で撮るようになると、同時に現実世界でも、日常に色彩が戻ってきたような気がする。
僕がこの二年間で学んだのは、人生というのは、細かい〈フェーズ〉と〈分人〉がパズルのように組み合わさって構成されているものだということ。
良いときもあれば、悪いときもある。
耐えられる痛みもあれば、ただ癒えるのをじっと待つしかない傷もある。
足掻いても、じっとしていても、いずれにせよ〈フェーズ〉はいつか、終わる。
そして僕たちは、平野啓一郎が言うように、自分自身という一個人では決してなくて、他者に対するそれぞれの〈分人〉で構成されているのだから、ありもしない〈自己〉や〈個性〉なんてものに振りまわされてなくていいのだということ。
そうやって、様々なフェーズとそれぞれの分人で自分や人生が成り立っているのだと知れば、自分にできることなんてたかがしれてるんだってことが身に沁みる。だから、たいていのことは乗り越えられるし、笑っていられるようになるのかもしれない。
長い旅を続けながら、たくさんの本を読み、映画を観て、世界を眺めた。
僕が知っている世界なんて、ほんの小さなミクロでしかないのだと知って、驚いたと同時に、嬉しくなった。
オードリーの若林さんは、消費大国アメリカに先導される「たくさん働いて競争に勝ってお金を稼ぎまくる人だけが幸せになれる」という思想が、〈新自由主義〉という単なる一時代の一過性のものでしかないのだと知り、安堵したという。
「先生、知ることは動揺を鎮めるね!」
「若林さん、学ぶことの意味はほとんどそれです」
知る、学ぶ、という行為は、ときに恐れ、慌て、パニックに陥る僕たちに安寧をもたらしてくれることがある。
知る喜び。なんで?を追求する好奇心。
そういう気持ちがあるということが、すでに幸せだということ。
けれど、そういう気持ちが薄れてしまうような夜もあるということ。
夏だから、お日様の下でたっぷり遊んで、冬が来たら、自分の部屋に引きこもる。そうやってまた、陰と陽を生きていく。
いいときも、わるいときも。
いいことも、わるいことも。
そんなおっさんの生誕と帰郷を祝ってくれたら、おいちゃん躍りあがって喜びます。
それから、この二年のあいだに声をかけてくれたのに会えなかった人たち、これからは外に出ていくフェーズなので、また声をかけてください。どこかで遊びましょう。スカイプは苦手なのでやめてね笑。
いいときも、わるいときも。
いいことも、わるいことも。
よろしくどうぞ。茅ヶ崎の竜さんでした。