富士山麓に広がるキャンプ場は、想像していたよりずっと広大な土地で、見わたす限りの山と芝の緑にはため息がもれるほどだった。
ハンモックに揺られ、うまいメシを食らい、やがてうるさく飛びまわっていた虫たちも夜露の重みに羽根を落ちつける頃になると、聞こえるのはテントから漏れる子どもたちの寝息だけになっていた。
僕と家内はルミエール・ランタンの小さな炎に揺られながら、ワインをちびちび啜って、とりとめのない話をしたり、ただ黙って夜空を見あげたりしながら、永遠に続くかのような静けさの時間をすごした。
やがてワインのボトルが空になると、そろそろ寝ようかと腰を上げかけたのだけれど、家内は黙ったまま、何やら言いたげな表情でグラスをもてあそんでいる。
ふだんならいつまでもだらだらと飲みつづけるのは僕のほうなのに、珍しいなと思いながら「もうすこし飲むかい?」と訊くと、彼女は小さく頷いた。
そういえばここのところ、彼女はそうとうに忙しない日常に奔走して、ゆっくりしている時間なんてほとんどなかった。家事に仕事に学校行事、さらにPTAの重要なポストに就いてしまったので、慣れないチーム運営などもあり、気の休まるヒマを持てずにいたのだろう。
そう思いあたると、こんなに豊かな大自然の中で他に誰もいない静けさの時間を過ごせるなんて贅沢な時間は滅多にないのだからと思えてきて、僕はクーラーボックスから缶ビールを持ってきて、そのままワイングラスに分けて注いだ。
「飲みたいときって、あるよな」僕は声を出さずにそう呟いた。
イヤなことがあったとか、ムシャクシャしたとか、理由とか解決策なんてどうでもよくて、とにかく、いつもより多めに飲みたい夜っていうのが、ある。
そう考えてみると、僕なんか、物心ついてからずっと〈飲みたい夜〉ばかりを過ごしてきたのかもしれないなと思う。
若い頃は毎晩浴びるように飲んでいた。意識や心を自分の中から追い出すように、ワケもなく大きな声を出して、ケンカをふっかけたり、暴れたり、僕はここにいるよと叫んでいたのだろうか、いつも意識を失って倒れるように眠りに墜ちたものだった。
あの頃は自分がどうしてそのようなお酒の飲み方をするのかもちろんわかっていなかったのだけれど、今ようやく、そういう時間が終わってみて、あれは長い永い〈飲みたい夜〉だったのだという気がする。
いろんな面倒なことが日常に積み重なって、いつもより飲みたくなった家内と同じように、僕もただワケもなく飲みたかった。そんな夜が継続的に長々とつづいていたのだ。
〈飲みたい夜〉というのは、混乱の果てにあるのだろう。生きているうちに、ワインボトルの底に沈む澱のように蓄積した鬱屈が、ぐるぐると混ざりあって、頭の中が混乱してくると、それを静めるための時間が必要になるのだ。
やがて自分の身の丈を知り、世界の有り様を知っていくうちに、人生そのものが落ちついてきてようやく、長い永い混乱の夜が終わったのだ。
今でも、イヤなことがあったり、大きな疲労や達成感が混ざったりして、ワケもなく〈飲みたい夜〉というのはある。けれどあの頃のように、自分の心をなかったことにして自分を痛めつけるようなことはなくなった。それはずいぶん長い時間だったのだけれど。
それから僕と家内は、とくに人生の大切な話をするとか、建設的な相談をするわけでもなく、ただとりとめもない言葉を交わしながら、ちびりちびりとビールを啜った。
足もとを這う乳白色の夜気をひんやりと感じながら、やがて僕らもテントに潜ると、いつの間にか眠りに墜ちていった。それはそれは静かな夜だった。