Amazonプライムでやってる『モダン・ラブ』っていうアメリカのドラマが好きで、よく見てる。

ニューヨーク・タイムズに投稿されたコラムを脚色した、一話完結のオムニバス形式のドラマで、恋愛のエッセンスがうまく凝縮された簡潔でさっぱりとした脚本と、かろやかでほどよくお洒落な演出が素敵なシリーズ。

休日の朝にシャワーを浴びたあと、ヨーグルトでも食べながら、前に見たエピソードを見るともなしにテレビに流しておくと、心地よい鼻歌が漏れてしまいそうな、そんな素敵なドラマだったんだけれど。

第三話、大好きなアン・ハサウェイのエピソード『ありのままの私を受け入れて』は、涙が止まらなかった。胃がきしんで、苦しくなった。

すこしネタバレしちゃうけども、冒頭から派手なスパンコールを着たアン・ハサウェイがスーパーで踊り出しちゃって、なんでここでミュージカル?って眉をひそめてたら、だんだんその理由がわかってきてね。

アンが演じる敏腕弁護士は、躁うつ病の女性だったの。

それを、ストレートに、ひねることなく、ちゃんと、まっすぐ描くための、ミュージカル演出だった。

双極性障害(躁うつ病)の女性を妻に持ち、その影響か、自身も躁うつというか、陰陽を人より意識して暮らしている僕なので、身につまされる思いで、胃がきしんだ。

作中、アンのつらく苦しい〈鬱の時間〉が終わり、やっと明るく楽しい〈躁の時間〉が訪れ、思いを寄せる男性が訪ねてきたのに、またしても〈鬱〉の闇に落ちそうになったときには、その先を見ていられなくて、再生を止めてしまった。

しばらく時間を置いて、あらためてその先を見てみて、すこしつらかったけど、彼女が一つの大きな壁を越えていくところが見られて、僕の心も楽になった。

彼女の言葉を借りれば、「胸を押し潰してたゾウの足が消えた」ように。

それにしても、この役をアン・ハサウェイにやらせた素晴らしいキャスティングに拍手を送りたい。

抜群の演技力はもとより、こういう華のあるスターが演じることで、躁うつ病という病を、偏見なく描くことに成功しているのではないか。

そして、躁うつ病というのは、病でありながら、病でない、というか、誰しもが抱える陰と陽の循環が、人よりも過剰である、ということが、伝わるのではないか。

まぶしいアンの笑顔が、すっと、一瞬で曇り、みすぼらしく萎んでいく場面には、鳥肌に震えた。

物語の最後、アンは、ありのままの自分を告白し、受け容れられ、すべてをさらけ出して生きるようになって、自分らしい輝きを放ちはじめる。

けれども、僕の経験から言っても、いつも誰もが、その告白を受け容れてくれるとは限らない。

一番信頼している人、一番大切な人、一番頼りたい人に、勇気を出して自分をさらけ出したときに、拒絶されてしまうこと__は、少なくない。

それが怖くて、傷つきたくなくて、そのままの自分を隠してしまうのも無理はない。

けれど、この作品でもそうなのだが、はじめに理解してくれる人、受け容れてくれる人、というのは、すこし距離がある人である場合が多い。

いつも身近にいるパートナーや家族、近しい友人たちは、自分と近いぶんだけ、時差がある。理解するのに、時間が必要なのだ。

それは、愛情があるとかないとかの話ではなくて、__親しい故の距離、とでも言うべき、ひとつの愛の形なんだと思う。

つくづく、物語は人を救うなあ、と思う。

今や、どこを向いても、アレは正しい、コレは間違ってる、あの人はスゴい、あいつはバカだ、と善悪や損得、不安と正義の剣で斬り斬られの社会で、物語は、人間そのものを許容してくれる。

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