彼女はよく、キッチンテーブルに座って、ぼーっと一点を見つめていた。
彼はそれを見つけると「何してるの?」と訊いた。
「え、何もしてないよ」
「でも、何か考えてたでしょ。何を考えてたの?」
彼女はまた少し中空を眺めて、「何も考えてなかったよ」と言う。
「何も考えない、なんてことがあるかな。何か考えてたでしょ?」
「ううん、何も考えてなかった」
彼にはそれがよくわからなかった。彼はいつも何かをしていたし、何かを考えていたし、何かをしようとしていたから。彼には空白の時間がなかったから──。
それから何年かして、彼にもだんだんわかるようになってきた。
何もしない時間、何も考えない時間、何もしようとしない時間──。
彼はソファに座ると、目を閉じて、ただ座っていた。
しばらくそのままでいることもあれば、すぐに何かを思いついて立ちあがることもあった。長短はあっても、彼の人生に、何もしない時間が生まれた。
何もしない時間──それは人生の隙間を繋ぐスイッチのようなものだ。彼はそう感じるようになった。
そして、何もしない時間が生まれたことで、ひととき止まっていた彼の人生が、ふたたび回りはじめた。
何もしない、何も考えない、何もしようとしない──。すると、彼の頭と心には空間ができた。やがて、その空間に様々なものが流れこんできた。