◀ 大好きなラーメンは味がしなくて、愛する海は鉛色に見えた。【鬱日記3】
それでもだんだん、気持ちが落ちついてきた。海を見にきてよかった、と思えた。
砂浜に打ちよせる波をぼんやりと眺めていると、ほんのしばらくの間だけだけど、時間の流れを忘れることができた。
どうやら問題はそこにありそうだった。いつでも何かに追われている感覚、何かをしなければならないのだという焦燥感が、僕を苦しめているみたいだ。
そういえばここ何年か、僕は常に過密なスケジュールに追われて生活していた。
朝四時に起きて夜十時前に寝るまで、分単位ですべての時間に予定を入れていた。生活のための業務、夢のための作業、その基盤となる健康のためのエクササイズ、バランスを取るための休養など、きちんと計画的なスケジュールになっているはずだった。
けれどこうしてぼんやりと海を眺めているとよくわかる。僕がiPhoneのカレンダーに書きこんでいた「休養」という文字は、次の予定にむけた準備時間にはなっても、実質的にはちっとも休めていない時間だった。僕はいつのまにか、どうやって休むのかがわからなくなっていた。
以前、しばらく心を病んでいた友人が我が家に泊まったときに、不思議な光景を目にした。彼は庭に置かれたキャンプ用のリクライニングチェアに腰かけているのだが、両手足をぐっと伸ばして、全身に力を入れた奇妙な姿勢で座っていたのだ。
「それ、なんのつもり?」僕が訊くと、彼は照れ笑いをしながらこう言った。
「オレ、こうなっちゃうんだよ。リラックスしたいんだけど、全身がガチガチになっちゃって。こうやってひとつひとつほぐしてやらないと、身体から力がぬけないんだ……」
そう言いながら、彼は両手で膝を持ちあげてもう一度椅子に置き直す。次は逆の足。その次は腕。そういう作業をひととおり終えると、ようやく人並みに脱力した姿勢で彼は椅子に深く腰かけることができた。
そのときは「おかしなやつだな」と笑った僕だったけど、今なら彼の言うことがよくわかる。
僕の心と体は、次なるスケジュールに追われて、いつもガチガチに凝り固まっていた。
リビングのソファに腰かけても、ぼけっとすることができない。休養しなくては、と焦り、でもどうやって休めばいいのかわからないから、iPhoneを手に取る。参考記事や次の予定を調べたり、ネットで情報を探しているうちに休憩時間は終わる。
ちっとも休めていないんだけど、次のスケジュールを実行できることに安心する。何かをやっていないと落ち着かない。回遊魚みたいに、動いていないと死んでしまう、そんな身体になってしまっていたのかもしれない。
さっきまで強烈に感じられた初夏の陽光は、海の巨大な鏡面に反射して、やさしい光となって世界を照らしていた。打ちよせる波音も、ささくれだった僕の心を落ち着かせてくれるようだ。
けれど___。家に帰ったら何をしようか。そう考えると、唐突に気持ちが萎えていくのがわかった。
鬱病の人は、数メートル先の電信柱まで歩いていく気力がないという話を聞いたことがあるが、なるほど今ならそれがよくわかる。
ここにずっと立ち尽くしていたら、家族が心配するだろう。あるいは潮が満ちてきて、海に引きずりこまれてしまうかもしれない。
でも、それはそれでいいような気がするのだ。もう、どうでもいい。すべてが面倒だ。次に何をしようか、考えるのも、後ろを振りかえるのも億劫だ。
見上げるとトンビが二羽、大きく空を舞っていた。
つづく。