自分が何をやりたいのかすらわからなくて、僕は下着を脱いだ。【鬱日記2】

◀ ある朝会社へ行ったら、涙があふれてとまらなくなった。【鬱日記1】

「今日はもう帰りなさい。会社のことも家のこともすべて忘れて、好きなことをしなさい。ゆっくり、あなたがやりたいことだけやりなさい」

いつも隣のデスクで仕事をしている直属の上司は、僕の家庭内のことも知っていたので、そう言って快く送り出してくれた。

それでも後ろめたく、動揺していたのだろう。僕はオートバイのエンジンをかけてからヘルメットをかぶっていないことに気づき、クラッチを握ってからグローブをはめていないことに気がついた。

 

会社を出る頃には太陽が奔放に輝いていた。ぢりぢりと二の腕を灼く陽光が心地よい。風は生ぬるく、すこしだけ海の香りがした。それでも涙は止まらなかった。

陽のあたる家に戻る。午前中だから誰もいない。明るく開放的な玄関口を眺めていたら、九年前に引っ越してきた頃のことを思い出した。なんの心配もなかった、ただ海の街に移住してきた喜びだけに充たされていた日々のことを。

ノスタルジーに浸っている余裕はないので、そそくさと室内に逃げこむ。カーテンは開けない。荷物を投げだす。ソファにどっと腰をおろすと、ふっと深い溜息が出た。

意外にも気持ちはいくぶんか前を向いていた。上司がああ言ってくれているのだから、今日だけは好きなことをやろうと思った。家内も子どもたちもいない。本当に自分がやりたいことだけやろう。

買ったばかりだけどちっとも触れていないカンカラ三線を弾こうか。埃をかぶったクラシックギターを取り出して、アルハンブラ宮殿の練習を再開するのもいいだろう。読みかけの本もあるし、書きかけの記事もある。こんなときこそ、ひさしぶりに波乗りへ行こうか。いや、せっかくだからゆっくり映画でも観にいこう。岩盤浴で深い思索に耽るのもわるくない。

僕は中途半端な姿勢でソファに横になったまま、壁掛け時計を眺めながら、呆然とした。何をしたらいいのか、わからなかった。やりたいことは頭に浮かぶのだが、いざ立ちあがろうとすると、どれも本当はやりたくないのだということに気づかされた。

自分が何をしたいのか、さっぱりわからなかった。それはとてもショッキングなことだった。

僕の頭の中は、毎日やりたいことで溢れかえっていたのに、夢や将来の希望に満ち溢れて、定めた目標に向かってひたすらコツコツと前進し、あれもしたいこれもしたいもっとしたいもっともっとしたいって、そう思っていたはずなのに、何もする気になれなかった。すべてが灰色に見えた。

そうやってどれくらいの時間をソファで過ごしたのだろう。唐突に思いあたって、僕は自慰をすることにした。ティッシュの箱を持って、布団に横になって、下着を脱いだ。止まったはずの涙が、どっと溢れてきた。

僕にはもう、こんなことしかできないのか。僕がやりたいことって、こんなことしかないのだろうか。

くずおれそうにむせび泣きながら、僕はそのままの格好でいつの間にか眠りに墜ちていた。

つづく。

▶ 大好きなラーメンは味がしなくて、愛する海は鉛色に見えた。【鬱日記3】