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食っちゃ寝正月で憑き物が落ちた?

大晦日から正月三が日にかけて、家でただひたすら飲んで食って遊んでました。

喪中で新年の挨拶をひかえたこともあり、SNSにも触らず、LINEやメールがきても開かず、家族以外の誰とも接点を持たずに、ビールだワインだプロセッコだ日本酒だ刺身だ煮物だ雑煮だ映画だテレビだゲームだ昼寝だ猫だと、ある意味正しいお正月を過ごして、今日を迎えています。

新たな抱負や意識も持たずにただただ刹那の欲望のままに過ごしていると、だんだんそれにも飽きてきて、勝手にやる気や活力が湧いてくるようで、今日は朝から溜まった洗濯物やら洗い物やらゴミやらを片づけて気持ちのいいスタートです。

こうして晴れやかな気持ちで書斎に座っていると、この数日間でなんだか体が軽くなったような気がします。食っちゃ寝正月で体重は増えているにもかかわらず、心身がかろやかに感じられるのは、「憑き物が落ちた」という感覚に近いのかな。

昨年の後半は、夏に亡くなった父が遺したあれこれの事後処理やそれによって乱れた家庭を立て直すのに四苦八苦していたのだけれど(それはまだつづいているのだけれど)、そういう過程で知らぬ間に身にこびりついていた「しがらみ」や「執着」「ねじくれた見方」というような心の澱(おり)が、正月のプロセッコで洗い流されたような気がするのです。

それはぼくが今まさに、民俗学でいうところの「ケガレ」を「ハレ」によって浄化し、「ケ」の日々をスタートさせようとしているということなのかもしれません。

父の死(ケガレ)を正月(ハレ)が浄化し、日常(ケ)がはじまる。

かつて日本人は、正月や節句、お盆、お祭りなどの季節の行事や、冠婚葬祭などの<非日常>のイベントを「ハレ(晴れ)」と呼び、そのほかのふだんの<日常>の暮らしを「ケ(褻)」と呼んで、明確に区別して生活していたそうです。

また、退屈な「ケ」の毎日を淡々と暮らしていて鬱屈がたまったり、病や死、出産などの出来事でエネルギーが<枯渇>することを「ケガレ(気枯れ)」と呼び、「ハレ」のイベントで清めたりお祓いをしたんですね。

わかりやすく言えば、毎日コツコツ仕事をして疲れがたまったり、しんどいことがあったときでも、みんなでパーっとやったり、積み重ねてきたものが昇華する晴れの舞台で再起動して、楽しくたくましく生きていきましょうよ、ってことです。

父の死に「ケガレ」という語感を当てはめることにはやや抵抗がありますが、大切な人の死によって心や生活が乱れた、という意味でいえば、それは早々に浄化して前を向きましょうという考え方はよく理解できます。

「ハレとケ」の概念を見出した民俗学者の柳田國男さんは、明治以降の日本人の生活は「ハレとケ」、つまり日常と非日常が混乱していると言うのだけれど、明治時代よりずっと物質的に豊かになった平成の世においては、その混乱はますます拡大していますよね。

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ぼくもそうだけど、みんな毎日いいもん食べすぎでしょう(笑)。以前家内に「毎日こんなに美味しいものこしらえていたら、クリスマスとか誕生日とか大変じゃない?」と訊いたことがあるんだけど、まさにそういう記念日とかの「ハレ」の日に食べるものを、ぼくらは「ケ」の毎日に食べまくってしまうので、本当の「ハレ」の日にはもっとスゴいごちそうを用意しなくちゃいけません。ママいつもありがとう。

昔のエッセイとか読んでると、年に一度誕生日に街のレストランでオムライスとフルーツパフェを食べるのが楽しみだったなんて話が出てくるけど、今なら下手したら「しょうがねえから今日はファミレスでいいかあ」なんて感じだったりしますからね。だいたいぼくらの生活水準はもうマリー・アントワネットとかよりぜんぜん上なわけですから、足ることを知る、という意味でも、ハレとケを意識することは現代を生きるヒントのひとつだと言えるでしょう。

また、フェイスブックやインスタグラムなんかのSNSが、まさに「ハレ」アピールツールとして機能しているので、みんながおいしいもの食べてきらびやかな暮らしをしている様子を見ると、それに比べて自分の「ケ」の暮らしのあまりに地味で退屈であることに気持ちが滅入ってしまうのが「SNS疲れ」というやつなのでしょう。

けれど言うまでもなく、他人と自分の「ハレとケ」のパターンや大小、時期や価値観はまったく別物なので、そんなものに一喜一憂する必要はないですよね。ぼくもよくSNSで「ハレ」アピールをしてしまうけれど、度が過ぎると品がないな、という自戒はあります。

自分と他人の「ハレとケとケガレ」を把握する

こういう無意識の混乱が多発する現代だからこそ、自分自身や他人が今、「ハレとケとケガレ」のどの状態にいるのかを常に意識することは本当に大切です。

  • ハレの日:待ちに待った楽しみなイベントや集まり
  • ケの日:仕事や好きなことを淡々と静かにこなす日々
  • ケガレの日:不幸があってしんどいけれど、いつか明るい日が来ると信じて耐える時期

今日のぼくは、昂奮と喜びに満ちた「晴れの舞台」に立つのか、それとも地味だけどぼくらの人生を底からじんわりとしあわせにしてくれる「日常の営み」を淡々と暮らすのか、あるいは気力や体力が枯渇していてしばらくおとなしく「耐えるべき時期」なのか、という「ハレとケとケガレ」を把握するだけで、揺れ動く感情や他人の価値観に左右されずに、どっしりと自分の真ん中を生きることができるんじゃないでしょうか。

同様に、SNSで華々しい生活をしているように見える他人だって、それはちょうど「ハレ」の日を生きているだけか、あるいは毎日が「ハレ」であるように見せかけているだけの話です。きらびやかに見えるサッカー選手だって小説家だって映画スターだって基本的には「ケ」を生きているのです。もちろんインターネットやSNSには「ハレ」の素晴らしさを広める利点もありますが。

そして実際に「ハレとケとケガレ」を意識して暮らしてみると、「ケ」の毎日のなんと心地よいことか。質素な食事をとり、会うべき人だけに会い、心安らかに、好きなことだけに向きあって、静かなしあわせを感じる日々。こういう日々が基盤にあるから、「ハレ」の日が本当に楽しいし、「ケガレ」の日だって乗り越えることができる。ハレの日の料理は最高においしいし、仲間もそこにいるだけで楽しい。

そういえば、夏目漱石のお弟子さんだった内田百閒という随筆家は、毎日お昼には必ず近所の蕎麦屋の蕎麦を食べていて(夏はざる、冬はかけ)、どんな豪勢なごちそうに誘われても、必ず家に帰っていつもの駄蕎麦をたぐったそうです。「ハレ」の料理より「ケ」の蕎麦のほうがしあわせなことだってあるんですね。

ハレの日に想いを馳せながら、今日も淡々とケを生きていきましょうか。腹へったな。