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「私をコントロールしようとしないで!!!」

 今アメリカで放映していてNETFLIXでも観られる『リバーデイル』っていう海外ドラマを毎週楽しみに観ているんだけど、このドラマをひとことでまとめると「ハイスクール青春毒親ツイン・ピークス」といったところでしょうか。

 90年代に世界中でヒットした鬼才(変態)デビッド・リンチの名作『ツイン・ピークス』を彷彿とさせる、アメリカののどかな田舎町で起きた殺人事件と、一見牧歌的に見える住人たちの裏に隠された心の闇を描いたミステリーが軸になってるんだけど、まあなんといっても、この物語のエッセンスとなっているのは「毒親」。登場する高校生たちの親がみんな笑っちゃうくらいイカれてるんだわ。

 主人公の男子高校生・アーチーの父親は一人息子の夢や意思を尊重するいいおやじなんだけど、アーチーの幼なじみのベティ(カワイコちゃん)の母親っていうのがもう、見た目からして魔女みたいなザ・毒親顔!をしていて、そんな顔に負けないくらいのモンスター・マザーなのを筆頭に、善良だと思っていた黒人女性市長もとろけるようなゾッとするような笑顔で娘をコントロールするし、父親がアル中の暴走族で家がない小説家志望の奴とか、学校のスターが殺された一件で目立ってないけど、だいたいみんな親のクセが強すぎる!

 ただ物語が進むにつれて、ベティの母親みたいな「わかりやすい」毒親よりも、アーチーのおやじとか、ヴェロニカっていう女子生徒の友だちみたいに仲良しの母親とかの、いわゆる毒親の対極にいる「ものわかりのいい理想的な親」たちがじつは、子どもたちにとっての本当にしんどい「毒」になっていきそうな展開にみぞみぞしています。

 ぼくもカウンセリングみたいなことをしていたときがあるんだけど、みんなが今抱えている悩みや困難の根っこを掘っていくと、だいたいがもう最後に辿り着くのはおもしろいように共通して「押しつけられた親の価値観」なんですね。

 で、中にはベティの母親みたいに子どものすべてをコントロールしようとする、80年代なら教育ママ、最近ならモンスター・ペアレンツとか呼ばれるわかりやすい毒親もいるんだけど、それよりは、一見理想的ないい親、自分のことを愛してくれて自分のために苦労して育ててくれた「やさしいママ」のほうが厄介で、そういう親たちが結果的に大人になってまで心の鎖で縛りつける「甘い毒」であるケースが多かったりする。

 子どもそっちのけでパチンコや男に狂うような目に見えてわかりやすい毒親の場合、そのうち子どものほうが耐えられなくなって反旗を翻して、案外早く親離れできたりするんだけど、そうじゃなくて、たとえば親父が酒飲みで女癖悪くて金も入れずに家庭を蔑ろにするクソ野郎で、そんな親父から自分を守って健気に育ててくれた最大の味方である「やさしいママ」の存在だったり、両親ともに自分の生き方を尊重してくれていたものの、じつは無意識にコントロールしようとしていた裕福な家庭の余裕のある親たちのほうが、ぼくらを生きにくくさせてしまうのだから、人の世はつくづく面倒にできていると実感せざるを得ない。

 でまあ、このドラマを見ているうちに、当初感じていた最近のポップなアメリカン・ハイスクール・ツイン・ピークスというよりは、『ロミオとジュリエット』的な親の価値観に翻弄される悲劇的な側面の強い物語なのかなあと思ったら、シェイクスピアの台詞が引用されたりして、多分にインスパイアされているようですね。

 まあつまり、シェイクスピアが描いていた古典のテーマを、今この時代にポップにドラマで描いているに過ぎないのだけれど、それはけっきょく、ぼくらが抱える苦しみのほとんどは、すべてとは言わないけれどもう悠久の昔から親子の愛憎から派生していて、それは遡れば神話なんてみんな神々の親子関係の悲劇ばかりだし、古今東西、永遠のテーマなんだと、あらためて頷いたわけです。

 『駆込み女と駆出し男』を見たときも思ったんだけど、親が子を愛するあまりにコントロールしてしまう悲劇の背景には、どこの国にも封建社会があって、日本なら、おんな子どもは土間でメシを食え、なんていう前時代的な文化は、池波正太郎の時代はおろか、まだまだ現代にもその名残はたっぷりお釣りがくるくらいに残ってるんだなあと思いました。

 余談だけれどぼくのまわりには九州女がやたら多くて、無意識に自分が引き寄せているのかもしれないけれど、九州の父母をルーツに持つ女性は、男尊女卑というか封建制度の名残を多分に感じさせる、女は三歩下がって歩くべし、みたいな部分をどうしても感じてしまうんだけど、それはぼくの狭量で個人的な感じ方だし、そういう風に男性や親を立てる生き方を内包している女性は、じつはすごく個人的に自立した精神性を持っていたりして、ぼくは理屈抜きに大好きなんだけれど。

 ただまあ、月並みな結論に収束する恥ずかしさを押しのけて言うと、親が毒であるか薬であるか、というのは、やっぱり自分自身のとらえ方次第なんです本当に。だからといって、クソみたいな親に感謝するべきだ、とか、自分を苦しめたけどあの人は愛してくれたんだとか無理やり思う必要はなくて、まずは正直な息苦しさや憎しみを恐れずに発露するところからはじめなければいけないんだけど、この『リバーデイル』みたいなドラマを見ると、「ああ、わたしだけじゃないんだな」なんて感じて、いつの世にもある悲劇に巻き込まれているだけかあ、なんて達観を得ることができるかもしれないよって話です。

 そうそう、ぼくが好きな言葉に、ウディ・アレンの「Comedy is tragedy plus time」っていうのがあるんだけどね、彼の言うとおり、あらゆる悲劇は、時間が経てば笑えるんだって、思いますよ。毒が強ければ強すぎるほど、それが薬だったのだと気づいたらめちゃくちゃ強いですマジで。毒を与えられた人だけにしかたどり着けない境地が、ある。『マチネの終わりに』にもあったけど、過去をやり直すことはできないけれど、未来をどう生きるかで、過去ってどうにでも変えられるんです。

 ちなみに、もし子を持つあなたが毒親になりたくなかったら、気をつけるべきなのは「ダメ」という言葉です。本物の毒親は、子どもが何をやってもダメって言います。勉強しないで遊びまくってると「そんなんじゃダメでしょ」と叱り、勉強ばかりしていると「人生は勉強ばかりじゃないぞ」と言う。がんばってもダメだし、がんばらなくてもダメ。基本的に自分がガマンして生きているから、子どもが何をやってもガマンさせるし、苦しくなるほうに導いてしまう。そして当の本人は「すべて子どものため」だと心の底から信じているんだから厄介きわまりない。

 毒になる親って、虐待するようなクソ親じゃないんです。「自分は子どもを愛しているからこそ」と思って、毎日気づかぬうちに甘い毒を食べ物に混ぜてしまうような人が、不本意でしょうが、毒になってしまうケースがしばしばです。

 まあ、いくら気をつけたって、人は多かれ少なかれ誰かの毒になっちゃうのは避けられないんだから、とりあえずワインでも飲んじゃう?