家人が美容院に行っているあいだ、一人で明治神宮を歩いた。

都内で時間が空くと、ボクはよく明治神宮や代々木公園、新宿御苑などを歩いた。

明治神宮、一の鳥居は記憶していたよりもずっと巨大に聳えていた。ボクはしばらくそれを見上げていた。

派手な髪をして、めいっぱいお洒落をした若者が何人も歩いていた。彼らは皆、鳥居をくぐるときに一礼していて、ボクはそれを見て少し驚いた。入口に〈神宮の杜芸術祝祭〉と看板があって、ニューヨーク、ブルックリンで活躍している高校の後輩の作品が展示されているという。

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鳥居をくぐり、ブーツの底で鳴る細かな砂利の音を聞きながら参道をゆくと、森の左手に、銀色に輝くオブジェが見えてきた。

空は曇り、空気は湿っていた。暑くはないが、身体は重く、ブーツにあたる親指が痛んだ。オブジェが眼前に迫ると、磨きあげられ、鏡面のようになったステンレスの曲面に、森の木々が映っていた。それは、車輪に、鹿の角が刺さっているような形をしていた。

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ボクはそのオブジェの写真を撮り、右手に移動し、左手に移動し、近くに寄ったり、少し離れてみたりした。様々な角度と距離で見てみたが、そのときのボクはそれからとくに何も感じはしなかった。

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それからまた歩き、二の鳥居を抜け、本殿に入った。蒸し暑く、Tシャツやキャップの中は汗で蒸れていた。参拝はせず、入口付近のベンチに座って、水を飲んで、しばらく休んだ。風が吹いて、徐々に身体を冷ましていった。

巨大で丸い二本の大樹を眺めながら、あ、今ボクはなにも考えていないな、と思った。

なにも考えない時間を持つことが、脳にも心にもいいことは何かの本で読んで知っていた。けれど本に書かれているように努めても、なにも考えないことは難しいこともボクは経験から知っていた。

そんなことを考えながらふたたび二本の大樹を眺めてみたが、もう頭の中は思考で満ちていた。

後ろのベンチで、中年の女性が休んでいた。女性はマスクを外し、スマホの画面に忙しなく指を這わせていた。彼女も何かを考え続けているに違いなかった。

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家人との約束の時間が近づいたので、ふたたび歩きだした。同じ道を引き返し、帰りにも銀色のオブジェを見た。思っていたよりたくさんの人が参道を歩き、砂利がこすれる音がして、皆、鳥居で一礼した。

オブジェは森を映していた。同時に、オブジェは森に映っていた。オブジェは自然のなかで明らかに異物としてそこに在ったが、オブジェだけでなく、ここにあるものすべてが自然ではないような気がした。砂利の道も、森も、空気も。人為とは、自然ではないかと思った。

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神宮の森を出ると、途端、熱風が吹いた。熱帯の異国にやってきたかのように、空気は熱く、太陽は強く、原宿駅の周りには歩き急ぐ人の群れが蠢いていた。

彼らに引きよせられたのか、ボクはなぜか急がなくてはならないと焦り、汗だくになりながら歩いて、表参道の交差点へ出た。建て直しをしていた喫煙所が復活していて、たくさんの人が集まっていた。

さっぱりした髪型になった家人の後ろ姿が見えた。彼女は直前までその喫煙所で煙草を吸っていたに違いなかった。すごくいいよ、と僕が言うと、ふてくされたような顔をした。何年つきあっても、誉められると彼女はいつもそういう顔をした。

みずほ銀行前の信号を渡った。交差点の角にあった、長いあいだスーパーや薬局の入っていたビルは跡形もなく消え、代わりに段差になった公園のようなカフェのような場所ができていた。

「あれだけ便利だったビルを壊してこれかよ」と悪態をつきながら歩き、その隣のタイ料理屋に入った。

ムエタイのイラストが描かれた目立つ外観の階段を地下に降りていく。ランチはブッフェだという。アルコール消毒をして、席に着き、汗をぬぐい、ビールを頼んだ。

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ボクはトムヤムヌードル、家人はカオマンガイにパクチーを追加したものをメインに頼み、ブッフェの惣菜とグリーンカレーを食べた。

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外国人の若い男の店員は声が小さく愛想が悪く、それがまたよかった。なかなか来ないビールを彼に催促して、汗だくになりながらトムヤムヌードルを啜り、グリーンカレーを貪った。ボクはなぜか焦っているような気がした。今日は自分から進んで汗だくになろうとしているような気もした。それがなぜなのかはわからなかったが、汗をかくのは心地よかった。

ビールは存外にうまかったが、酔っぱらってしまいそうなので一杯でやめ、ルイボスティーをがぶがぶ飲んだ。

次はパッタイを食べ、ビールはシンハーにしようと話ながら店を出た。メインの料理はどれもうまそうに見えたが、けっきょくのところボクはブッフェのグリーンカレーさえあれば満足な気がした。

外に出ると、表参道の空はあいかわらず曇り、湿った空気が肌にまとわりついた。以前、父が美容室を経営していたテナントには、ボクの知らない別の美容室が入っていた。街並みはだいぶ変わっているのかもしれないと思った。喫煙所からモクモクと煙が昇っていた。