中島らもは「その日の天使」がいると言う。
絶望的な気分におちている時には、この天使が一日に一人だけさしつかわされていることに、よく気づく。
こんな事がないだろうか。暗い気持ちになって、冗談でも”今自殺したら”などと考えている時に、とんでもない友人から電話がかかってくる。あるいは、ふと開いた画集かなにかの一葉によって救われるような事が。それは その日の天使なのである。___『恋は底ぢから』中島らも
その日、天使は航空便でやってきた。
僕は絶望的な気分におちていたわけではないし、冗談でも自殺なんて考えていなかったけれど、ひどくつかれていた。
いろんなことがあって、人生の転換点をむかえて、新たに走りだしたのはいいんだけど、僕の心身は思ったよりも疲弊していて、思ったように動けない自分に歯がゆさをおぼえて、思いどおりにいかない毎日につかれていた。
航空便の箱をあけると、部屋じゅうに南国の香りがひろがった。葉を編んだ籠にキャンドルとシーソルト。そこにどこまでもハワイな絵柄のポストカードがそえられていた。
とどいたのは気持ちだった。送り元はホノルル。差出人は旧い友人。パイナップルの甘い香りを胸に満たしながら、僕の瞳から涙がぽろぽろこぼれおちた。
高校のひとつ上の先輩。バスケ部で同じコートを走った仲間。卒業してから数年たって同窓会で再会したとき、彼の笑顔はあの頃とちっとも変わっていなかった。
彼は僕が暗い穴に墜ちていたことをブログで読んでくれたのだろうか。あるいは以前書いたキャンドル入浴の記事を憶えていてくれたのだろうか。いずれにせよ彼は、僕がそういうことを気にしないでいいように、なんでもないメッセージをそえてくれる。彼のやさしさは、あの頃とちっとも変わっていない。
勝手にひとりぼっちな気持ちになって、勝手に暗い部屋に閉じこもったあの日から、僕のスイッチはオフになったままだった。それはどこかで心地よくもあったけど、このままではいけないこともわかっていた。どこかでスイッチを入れなければ、僕はこのまま死んだような瞳で生きていかなくちゃならない。
南の島からやってきた天使は、音もたてずにスイッチをオンにする。はるか6000kmの彼方から届いたパイナップルの香りは、僕をふたたび立ちあがらせてくれた。明日からもまた、笑顔でやっていけそうな気がした。
生きた人間のすることじゃないのよ、悲しみ続けるのは。
___『ガダラの豚〈2〉』中島らも